『老人と海』

1958年アメリカ映画 87分

監督:ジョン・スタージェス

脚本:ピーター・ヴィアテル

出演:スペンサー・トレイシー フェリペ・パゾス 他


あまりにも有名なヘミングウェイ原作小説の映画化。読んだことはあるのかもしれないが、「へーそんな話か」と思いながら見たので、もしかしたら読んでないのかもしれない。


いきなりのNに驚く。おうおう、いやに説明が食い込んでくるな…と思ってたら、そんな調子でずっと続く。でもそうする以外にない話。面白いかどうかはともかく、脚本と小説は根本的に違うということが非常によく分かるし、勉強になる。


人生も終わりに近付きつつある老漁師サンティアゴ(スペンサー・トレイシー)が海に出て、見たこともないほど大きなメカジキと格闘し、捕え、港へ持ち帰ろうとするのだが途中でサメに食べられてしまって残骸しか持って帰れなかったという話。


こう書くと身も蓋もない。だけどプロットというのは基本的に身も蓋もないものだ(と、私は思っている)。で、その身も蓋もなさを台詞やト書きで隠し、味付けし、形に仕上げる。それが脚本を書くという作業なのではないかと思う。しかし「老人と海」は、当然のことながらプロットとして書かれたものではない。老人が海で一人で「鳥も大変だな…」などと思っているのはプロットではない。そういう呟きは、基本的に脚本とは全く別次元のところに存在している。


この映画の脚本は、そういう意味で最初から矛盾を孕んでいる。Nがやたら多いのも、結局は台詞にもト書きにもならない部分を処理するにはそのまま言うしかなかったってこと。さらに言うと、サンティアゴはストーリーを担う唯一の存在なのに、眠ーくなったりする。つまり彼は、(漁師としての仕事はともかく)主人公としての仕事をおろそかにしてしまうのである。結果、こっちまで眠ーくなってくる。


私の仕事は脚本を書くことなので、そういう目線で見た場合、この映画の存在価値は正直微妙だと思う。だけど、私個人としては非常によく分かる。脚本でとらえきれていないこの老人の漠然とした思いがよく分かる。それこそヘミングウェイが書きたかったところなんだろうという気がするし、ああ小説ってそういうところを書くもんなのか、と思う。私はもともと論理的ではない、とっ散らかった思い付きの人間なので、もしかしたら脚本よりも小説の方が、感覚的には合うのかもしれない、とも思う。


とも思うが…じゃあ小説に転向するか、とも思えないところが我ながら難しいところで、これ考えだすときりがないのだが、なんで脚本にこだわってるのかというと要は現実との接点を失いたくないということなのである。とっ散らかった主観で私ワールドを作ることより、やっぱり、身も蓋もない現実という制約にとことん付き合いたい。なぜなら、「(その制約に)従いたいけど従えない」「従ったつもりだけど従えてない」「従うまいと思ったけど結局従った」という境界域での行動こそが一番面白いと思うから。そういうところをとらえたいのだ。何だか、文学じゃなくて社会学出身だってことも関係してそうだけど。


それにしても「老人と海」って高校とかの課題図書になってた気がするが、どうしてこんなもの読まそうとしてたのだろう。読んで何を思えというつもりだったのだろうか。


   捕えたメカジキの大半をサメに食べられてしまったサンティアゴ。

   独り言をつぶやく。

サンティアゴ「売ってるところがありゃ、運を買っときたいな…。何を払って?失ったモリとナイフと利かない手と交換にさ…。84日の不漁を代価に、運を買おうとした…買えるとこだった。…馬鹿なことを考えるな。運はいろんな形で表れるから、分かりにくい…」


★★★☆☆☆☆☆☆☆


they do in the movies