『飢餓海峡』

1965年日本映画 183分

監督:内田吐夢

脚本:鈴木尚之

出演:三國連太郎 左幸子 高倉健 伴淳三郎 他


3時間超の大作。でも全然時間を感じさせない。つくづく、昔の日本映画はどうしちゃってたんだろうと思う。何この映画。このテンション。なんでこういうレベルのものが作れたのか。そして今なんで(金と技術を惜しみなく投入しようとも)作れないのか。この、断絶としか言いようのない落差は一体何なのか。


この映画、「邦画」という括りに付きまとうある種のせせこましさを全く感じない。なのに、紛れもなく日本の映画。それには、三國連太郎演じる犬飼多吉という人物の造形が一役買ってるのかも。ドイツ人将校と言っても通用するくらいの顔立ちと6尺の背丈、にもかかわらず、どこか粘っこい関西訛りで。


殺人事件の謎を追っていく刑事弓坂(伴淳三郎)と味村(高倉健)がまたいい。だってあなた、伴淳と健さんだよ!どっちのブロマイドも持ってるよ!伴淳のよれよれの哀愁に健さんのつんのめり感は私的に鉄板、見てるだけでここまで気持ちが高揚する俳優ってちょっと他に思いつきません。で、その二人が要所要所で推理のまとめをするので、壮大でトリッキーな構成にも混乱することなく入っていける。イタコや恐山といったものの使い方も、分かりやすいのに深い。


そして、この映画のヒロイン・杉戸八重(左幸子)が後生大事に持っている犬飼の爪という小道具。丁寧に包んでお守りと一緒に持ち、時折開いては話しかけ、顔に添わせ、これがあるから辛い毎日にも耐えられるというこの感覚。単なる男女の情愛を超えた、共感というか、それよりもっと強いもの。変かもしれないけど私この感覚非常によく分かる。で、映画でこういう感覚をきちんと表現してるとこ見たのって初めてな気がする。


この映画は東映が監督に無断でカットをしたことでも有名。その理由が「部落問題」とwikipediaにはチラッと書いてある。私が見たのは完全版なので問題の部分も含まれているはずで、弓坂が犬飼の生家の悲惨さを語る辺りがそれに当たるのだと思われる。確かにここ、歴史的事実を知らない今の観客が見たら、家が貧乏だったぐらいでそこまで言うか?と不思議に感じるのかもしれない。しかし、その要素が分かるか分からないかでこの映画の価値は全く変わってくる。


たぶん今こういう映画が作れないのは、作り手が(部落問題に限らずだけど)社会の底流で淡々と脈打っている問題との当事者的な関係性を見失っているから。でもそれは作り手だけに限ったことではない。社会との接点喪失自体に端を発する殺人からは、もはやこんな物語は作り得ない。


   握り飯を食べている八重を見ていた多吉。

   八重、気付いて分けてやる。

   かぶりつく多吉。

八重「(微笑んで)あんた、親切な人ね」

多吉「俺がて?」

八重「あたすにはわがる」

   八重、もう一つの握り飯を差し出す。

八重「もう一つ」

   笑って受け取る多吉。

八重「かっちゃんの三回忌やったんさ」

多吉「ふーん」

八重「とっちゃんが、イタコさん呼んでかっちゃんの声聞かしてもらったんさ」

多吉「死んだ、おっかさんの声け」

八重「うん。恐山のイタコさん来たんさ」

多吉「恐山のイタコちゅうんは何や」

八重「ス(死)んだ人の霊を呼び戻す女の人」

多吉「へーえ。そいであんた、おっかさんの声聞いたんか」

八重「うん。『戻る道ないぞぉ、帰る道ないぞぉー』って」

多吉「……」

八重「(笑って)迷信よ。いい加減なこと言ってんだから」


★★★★★★★★★★