相対的幸せと絶対的幸せ~インド回想 | 生きづらさを抱えたまま50代を過ごす元JW2世のつぶやきブログ

生きづらさを抱えたまま50代を過ごす元JW2世のつぶやきブログ

生きづらいのは、自分に原因があるのか、脱会したとはいえ思春期にうけたJWの教えの後遺症か。。。
同じ思いで生きている人の助けになれば、私の経験も無駄ではないかもしれません。還暦近くになって離婚となりそうな話も。

インドの回想からたどり着いたのは
「幸せ」についての考察でした。
 



 
宗教二世として思春期を過ごし
家族をも捨てるつもりで宗教から脱出して
そこからは ずっと「幸せ」にならなくちゃ と考えていた私。
 
幸せこそが私のゴール。
 
 
そんな私が追いかけていた「幸せ」っていったい何だったのだろうと
インドのスラム街は私に考えさせました。
 
 
ただのパックツアーの観光客だったら感じなかったインドの空気。
自分たちの足で、スマホを頼りに歩き回ったからこそ見えたもの。
 
 
たぶん、私が見たインドの人たちは
ボロ布にくるまれて夜を過ごしていても「幸せ」なのだと思います。
 
それは、「絶対的幸せ」
 
誰かと、何かと比べて「幸せ」かどうかなんてケチ臭いものではなく。
 
自分だけが”ものさし”の「幸せ」
 
自分が これでいい と思ったら、それはもう絶対的に「幸せ」ということ。
 
 
 
それに引き換え私はなんてことでしょう。。。
 
 
私が追いかけていたのは「相対的幸せ」だったのだと
この旅で嫌というほど理解しました。
 
 
きっと頭のどこかでは分かっていたのです。
だけど、インドで見た世界は 私にその事実を突きつけてきたのです。
 
 
私は、誰かが言うところの「幸せ」が欲しかったんだと。
世間で常識と言われている「幸せ」
テレビや雑誌が見せてくる虚構の世界の「幸せ」
世の中で認められる人たちが手に入れている物質的な「幸せ」
 
 
他人の基準や、実体のない「幸せ」なんか、自分には何の関係もなくていいのだという事を。
 
 
幸せは、自分が決める事。
他人や世間は関係ない。
 
 
自分が、たとえどんなに小さなことでも満ち足りていれば
それはもう完璧な幸せなんだという事。
 
 
そんなことが分からなかったから、ホントにほんとで腑に落ちていなかったから、いつまでたっても「幸せ」を探してばかりいたんだね。
自分には関係ない幸せに踊らされていたんだね。
 



 
インドの路地で私の服をつかんで離さなかったあの子たち。
最初に湧いた「かわいそう」という感情が 
やがて「ほんとうはかわいそうなのは私じゃないのか」と変化した。
彼らが私より「幸せ」かどうかなんて
私が考える事じゃあないんだよ。
 
「幸せ」は、本人がそう思うなら そういうことなんだよね。
 
何でもある日本で、あれがないこれがないと不満ばかりの日本人より
よっぽど幸せに近いところで暮らしているんじゃないか。
 
 
 
 
私は私が心から満たされることをしていこう。
残りの人生は、自分だけが認める「幸せ」だけ感じていこう。
 
楽しい。
嬉しい。
満たされる。
癒される。
 
私の幸せは私にしか見えないもの。
私だけが知っているもの。
 
 
ものさしは「私」
そこには 相対的なものはなく、絶対的な私だけの基準があるのみ。
 
 
ごまかされない、踊らされない、まやかしにあわない。
 
私は私の人生を生きる ってそういうことだよね。
 
 
 
インドはやっぱり凄いものを見せてくれました。