昨日に引き続きインドの回想。
「可哀そうなのはどっちなんだ?」
インドにいる間中 頭の中でぐるぐるしていた言葉です。
ずっとついてきたデリーの物乞う幼子たち。
単語だけの英語とジェスチャーで 赤ちゃんがおなかすかせていると訴える。
私はあの子たちに、何らかの施しをすべきだったのではないか。
今でも何もしてあげられなかったことが悔やまれます。
なぜ?
可哀そうだから?
かわいそうって、なんだろう。
彼らはかわいそうなのだろうか?
かわいそうなんて簡単な言葉で表現していいのだろうか。
それは私の、先進国?に住む者の驕りではないのか。。。
彼らはかわいそうなんかじゃないのかもしれない。
私の基準が、彼らの基準と違うだけなのか。
物事の一部分を見ただけで、勝手に「かわいそう」という「形容詞」を与えて、終わらせるのは乱暴なのではないか。
なぜなら、彼らは彼らで幸せなのかもしれない。
私の後を通いてきた後、路上の家に戻れば優しい母親がいて、かわいい妹の赤ちゃんがいて、もしかしたら今日はいつもよりたくさんの食事にありつけて喜ばしい一日を終えるのかもしれない。
幸せな一日なのかもしれない。
彼らのどこを切り取って見ただけで かわいそう と片づけるのか。
彼らの方が幸せなのかもしれない。
親とうまくいかなかったり夫とうまくいかなかったり、
やりたいことがやれなかったとか
人生が空しいとか
そんなことにため息ついてばかりの私より。
幸せなのはどっちなのか
かわいそうなのはどっちなのか・・・
幸せの絶対値ってどこにあるのだろう。
どこにもないよね、そんなの。
幸せかどうかは、各人が決める事。
状況は、見る人や見方によって
happy にも unhappyにも受け取れるんだね。
今の私は幸せなのか?
今の私はかわいそうなのか?
人は、自分が思ったように生きるんだね。
どんな人生でも、幸せだって思って生きれば それは幸せな人生になるんだね。
今日の食事に恵まれた幸せを、どう受け取るか。
寒い夜に眠る家があることを、どう受け取るか。
以前聞いた話を思い出した。
どん底を味わった という人は高いところにいた事のある人。という話。
底 があるなら 高地 もあるからね。
ずっと底にいる人には、底は底じゃないんだよ。
それが平常。
といっても、底かどうかは分からないけどね。
自分は幸せなんだと思った。
日々の小さな幸せはスルーして、うんと大きな幸せが来ない来ないって嘆いていた。
幸せって小さなこと。
幸せって平凡で、穏やかで、ちっとも特別感のないこと。
底に気づけるかどうかなのかもしれない。
宗教二世が嫌で、親を振り切って自由な世界へ出た。
その世界には、うんと大きな幸せがあると思っていた。
ずっとそこにたどり着こうとしていた。
いつまでたっても私の理想の(大きく膨らみすぎた)幸せはやってこなかった。
違ったんだよね。
幸せって、なにかもう ものすごいことなんかじゃないんだよ。
ありきたりな平々凡々として 退屈なことなんだ。
そんなことに今まで気づけなかった私の方がよっぽど可哀そうだね。
インドの子どもたちの真っ白な目が私を見上げているよ。
春海の宗教二世のための相談会
4月はお休みします。
とはいってもお話ししたい方はメッセージくださいね。