一昨日、映画『白鳥とコウモリ』を紹介しましたが、
今日は、その原作本を。

[書籍紹介]



映画観賞後、
原作はどうなっているか、と思って読んだ。

原作と映画は別物、というのは正しい主張だが、
原作とはここが違う、
という比較も、映画の楽しみ方の一つであることも事実。
ただ、原作と違うから駄目というのは、
言ってはならないことだ。
しかし、時には監督が
原作へのリスペクトを欠き、
原作の背骨を理解せずに映画化する作品が多いこともある。
おしなべて、日本の映画監督は小説を読みこなせない
というのが私の持論だ。

「観てから読むか、読んでから観るか」
というのはよく言われることだが、
今回、映画で先が分かっているので、
謎や真実の判明で驚くことはなく、
やはりこういう読書はしちゃいけないな、
と思った次第。
映画は原作を上手になぞっており、
そういう意味で新たな発見はない。
ただ、522ページの大作なので、
省略した箇所は多い。

主な点に触れると、
○和真と弁護士堀部のやりとりは省略。
○和真の同期入社の同僚・雨宮は映画では登場せず。
○美令と和真が初めて接触するのは、本の半分くらい。
○和真が実家に帰って隣家の人物と会って、
 父の引っ越しの日にちを不審に思うのは、カット。
○達郎が遺産贈与について相談していた名古屋の弁護士に会うのは
 映画では五代だが、原作では和真。
○五代が次の事件、山中バラバラ遺体事件の捜査に当たる下りは触れず。
○弁護士に勧められて被害者参加制度を使う下りは割愛。
○殺された詐欺師・灰谷の事務所で働いており、
 達郎と共に第一発見者になった坂野との接触は描かず。
○美令が父の大学時代の友人に会う下りは省略。
○達郎と灰谷との自転車接触事故について
 警察は接触の痕跡を見つけられなかった、という点は触れない。
○映画では、達郎の死を和真は美令に伝えていない。

という風に、枝葉の部分をうまく刈り込んだのは、
脚色者はなかなかの手腕。
(唯一加えたのは、和真が職場でプレゼンするシーン。)
ただ、原作を読んで、映画に不足していると思われるのは、
33年前の殺人事件を引きずる達郎と白石弁護士の苦悩がうまく描けていないことだ。

達郎が冤罪自殺した男の遺族を訪ねて謝罪したのも描いていないし、
白石弁護士が達郎から冤罪自殺の遺族のことを聞いて、
密かに門前仲町を訪ねて、その店を遠くからながめるなど、
原作にはあっても映画にはない。
白石弁護士が弁護士を辞めるほど悩んでいたというのも触れず。
殺された後、犯人をかばうため
自力で運転して、後部座席に移動した下りは、
もっと深く描く必要があっただろう。
白石弁護士を演じた中村芝翫など、
しどころがなくて同情するくらいだ。
冤罪自殺した男の娘・織恵が達郎に好意を抱き、
達郎の告白を聞いても恨まなかったのも、
せっかく井川遥というきれいな女優さんを使っているのに、もったいない。
達郎からのメールを息子が読んで
33年前の事件と白石弁護士の関わりを知ってしまうのも、
映画では言葉で触れるだけで、
直接描写しないから、弱い。
息子の殺人の場面、逮捕の場面も
描いたらドラマチックになっただろうに。
事件後、釈放された達郎が店に寄ったのも、
映画で描けば、良い場面になっただろう。

原作は二つの柱で成り立っている。
一つは事件の加害者の息子と被害者の娘が
共に真相解明に向かう
という斬新な構成。
もう一つは33年前の殺人事件の真相を隠してしまったために、
冤罪自殺の遺族を苦しめたことへの達郎と白石の苦悩
つまり、「罪と罰」
第1の柱をしっかり描いた上で、
第2の柱をふくらませば、
脚色者の手腕が発揮できたと思うのだが。

結果としては、残念な映画化作品になった、
と言わざるを得ない。

美令の疑問に対して
検事も弁護士も乗り気にならない件での美令のセリフ。

「検事や弁護士というのは、
裁判に勝ちさえすれば
真相などは二の次なんですね」


加害者の息子と被害者の娘が真相究明に向かうことを
五代の同僚の中町は言う。
「光と影、昼と夜、
まるで白鳥とコウモリが一緒に空を飛ぼうって話だ」

なかなか良い表現なのに、
なぜか映画では使われていない。

『小説幻冬』(幻冬舎)に
2017年から2021年にかけて
不定期に連載された7編をもとに
加筆のうえ長編に再編し、単行本として刊行されたもの。
東野圭吾作家生活35周年記念作品だという。
刊行当時、著者本人が「新たなる最高傑作」と認めた。