奈美恵は、今春から経理の専門学校に通い始めた女の子だ。
持ち前の社交性のおかげで、すぐにたくさんの友人に恵まれた。
その中でも一番の仲良しは沙織だ。
妙に気が合うのだった。
まるで、幼なじみに再会した様に、すぐに打ち解けた。
ある日、沙織が嬉しそうな顔をして、奈美恵のところにやって来た。
『ねえねえ、奈美恵ってさ、野球は好きなの』
そう言って沙織は、なにやら封筒の様な物をひらひらとさせた。
『えーっ、興味ないよ。ルールも分からないし、てかそれ、何?』
『へへーっ、当たっちゃったのね。開幕戦のペアチケット。外野の自由席だけどね。一応、席は指定席扱いになっているの。ライトスタンドの最前列だよ。ねえ、一緒に行こうよ…。親友じゃん』
そう来られると奈美恵は弱い。
だからこそ友人も多いのだ。
奈美恵は、あまり乗り気はしなかったが、結局はお供する事にした。
札幌ドームなんて行った事のない奈美恵であった。
いよいよその日がやって来た。
奈美恵は、シャトルバスを降りたとたんに、札幌ドームの巨大さに仰天してしまった。
『わあ…。すごいね。銀色の宇宙船みたいだね。沙織』
そう言いながら、奈美恵は、初めての札幌ドームにワクワクしてはしゃいでいた。
『ちょっとお、あんまりキョロキョロとしないでよ…。恥ずかしいよお』
と奈美恵は沙織に何度もたしなめられた。
席に着いてもそれは変わらず、奈美恵は、いつまでもソワソワ、キョロキョロと、辺りを見渡していた。
『奈美恵、札幌ドームを見に来たんじゃないんだからね!私達はウォリアーズの試合を見に来たんだからね!』
とうとう、沙織に怒鳴られてしまった。
二人はライトスタンドの一番良いであろう席に陣取った。
『さすがはSBCラジオの懸賞なのね、ここすんごいわよ…。射場選手がすぐ目の前じゃん』
と沙織が気色ばんだ。
試合が始まった。
相手は古豪の東部チーターズだった。
しかも、投手はエースの温井、こちらもエースのマッキントッシュ優、絶対に負けられない開幕戦。
ウォリアーズの外野陣が守備位置に付く。
『かっこいい』
素直に奈美恵はそう思った。
特に全力疾走でこちらへ向かって来る射場選手に目を引かれた。
なぜだか、遠い昔の亡き父の姿が目に浮かんだ。
外野陣は、ライトの射場選手の他には、センターの竜田隼人、レフトには矢神哲也がいて、12球団随一と言われていた。
ウォリアーズの外野陣は、3人とも長身で、見るからに屈強そうである。
奈美恵は、なぜか、射場敦志選手だけが気になって仕方がなかった。
時々こちらを振り向いた笑顔が、とても爽やかだった。
ぼんやりと射場選手を眺めていると、幼い頃に、父に遊んでもらった記憶が蘇って来る。
『似てる…』
そう奈美恵は呟いていた。
『ああん…。もう!これじゃ外野フライで1点じゃんよ!』
沙織の叫び声で、奈美恵は我に返った。
ふと視線をピッチャーの方に移すと、三塁にランナーがいて、ボードには1アウトの表示があった。
視界に入る、射場選手、竜田選手、ファーストの橋本亮選手、セカンドの畑中健太郎選手、ショートの金岡巧選手、サードの大屋俊一選手が身構えて、こちらにも緊迫感が伝わって来る。
そして遠くでは、矢神哲也選手が、ストレッチをして緊張をほぐしている。
その時奈美恵は、初めて、満員の札幌ドームの凄まじい熱気を肌で感じた。
試合は両チームが無得点のまま、延長11回の表で1アウト3塁だった。
フルカウントから、亀山慎平の選択した球はストレートだった。
マッキントッシュ優が静かにうなづいた。
渾身の外角低めのストレートは、見事に流し打ちされ、1・2塁間の真ん中後方に浅いライナーが飛んで行った。
満員の札幌ドームは悲鳴に包まれた。
隣りの沙織の悲鳴が聞こえないほどであった。
誰もが失点を覚悟した。
悲鳴の鳴り響く中、奈美恵はひとり、息を殺していた。
すると、射場選手が猛ダッシュして、あわやライト前に落ちそうなこの打球をすんでのところでダイビングキャッチをした。
うつ伏せになった射場選手を見た3塁ランナーは、すぐさまにタッチアップをした。
しかし、射場選手は素早く半身に起き上がり、矢のような送球が、畑中と橋本の間をするりと抜けて、亀山慎平捕手のミットにストライクで収まった。
アンパイアの右手が力強く振り降ろされた。
見事なファインプレーに、球場は大歓声に包まれた。
射場コールがこだました。
割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
そして試合はサヨナラの場面だった。
12回裏のウォリアーズの攻撃が始まった。
タックこと金岡巧が左中間のツーベース。
続く畑中は渋いセンター前。
ノーアウト1・3塁だったが、矢神がピッチャーゴロに倒れてダブルプレー。
2アウト3塁の場面で、射場選手が打席に立った。
射場は初球のインサイド低めのスライダーを綺麗に振り抜いた。
打球はぐんぐんと奈美恵の方へ向かって来る。
飛んで来たボールは、奈美恵の頭上で失速して、そのままふわりと奈美恵の胸元に落ちた。
奈美恵は、サヨナラホームランのボールをしっかりと胸元に抱いて、呆然と立ち尽くしていた。
再び沸き起こる大歓声…
満員の札幌ドームは歓喜に溢れていた。
『奈美恵、サヨナラホームランボールをゲットぉ!』
隣りでは沙織が、自分の事のようにはしゃいでいた。
奈美恵は、右の拳をあげながらダイヤモンドを一周する射場を、眩しそうに見つめていた。
その時、たしかに、奈美恵は射場に恋をした。
仄かな淡い恋だった。
そしてその時から、奈美恵は、ウォリアーズの大ファンへと変貌してしまうのだった。
ヒーローインタビューで、マッキントッシュ優、通称マルをねぎらう射場の声を聞いている間、自分では何故だかわからずに、ポロポロとポロポロと涙が溢れ出た。
最後に選手達がスタンドに挨拶に来た。
射場もライトスタンドに来た。
奈美恵はホームランボールを握りしめて『力いっぱいに、射場選手、おめでとうございます』と叫んだ。
すると射場は、奈美恵を指差して微笑み、そのボールをよこせと身振りで伝えていた。
奈美恵はそっとボールを下に落とした。
射場はそれをキャッチして、すらすらと、2010年3月20日、サヨナラホームラン、射場敦志、41、とサインしてから、見事なコントロールで、また奈美恵の胸元に返してよこした。
射場コールが、いつまでも鳴り止まなかった。