奈美恵はまだ興奮していた。
『まあ、ラッキーだわね。初ドームでホームランボールをゲットだなんて。しかもサインまでしてもらってさ!』
『あ~あ、あたしもマルのサインボールが欲しいなあ…』
沙織はマッキントッシュ優の大ファンだった。
『ていうか、5年も前から通い詰めているあたしがまだ手に入れていないものを、なんで奈美恵がいきなりゲットしちゃうんだろ』
沙織は羨ましくて仕方がなくて、憤懣やる方ない様子だった。
沙織は、このときにはまだ、奈美恵が射場に恋をして、ウォリアーズの大ファンになってしまった事には気付いていなかった。
奈美恵は、その夜は、なかなか眠れなかった。
ベッドによこたわって、サインボールを何度も眺めた。
口元に近づけると、サインボールはいい薫りがした。
そして、いつしか、心地よく眠りに落ちていった。
翌朝、心地よく目覚めた奈美恵は、図書館へと直行して、射場とウォリアーズの事を徹底的にリサーチした。
特に射場については、カルピス時代も入念に調べあげた。
数日後、今度は奈美恵の方から沙織を誘い、二人は再び札幌ドームにいた。
今度は一塁側のフィールドシートに陣取った。
母親の知り合いに広告代理店の社長がいたのだ。
その社長がその日のチケットを持っていた。
やはり、射場は躍動して、試合はウォリアーズの圧勝であった。
選手達が、大歓声に応えて引き上げて来る時、奈美恵は、射場と目が合った。
射場は奈美恵をしばらくの間見つめていた。
奈美恵は、ハッと息を呑んでいた。
ほんの十数秒だが、奈美恵には永遠に感じられた。
本当の事を言えば、今日は射場に声を掛けようと勇んで来たのに、射場に見つめられた奈美恵は、真っ赤になって下を向いてしまった。
射場は何事もなかったように、そのままベンチに引き上げて行った。
その夜は、今度は射場が、なかなか寝つけなかった。
『あの子、どこかで見たような気がするのだよな』
『それにしても、あの真っ直ぐな眼差しは、大騒ぎしていた他のファンとは違う。あの訴えかける眼差しは、いったい…』
やはり射場は眠れなかった。
伏古に買ったペントハウスのベランダに出て、夜風に当たった。
4月上旬の札幌の夜は寒かった。
最上階の30階では殊更に寒かった。
射場は、練習着に着替えると、ポルシェのキーをひねり、そのまま室内練習場に向かった。
警備員さんに暖房をお願いして、黙々とティーバッティングをしていると、辺りは明るくなってきた。
『マズいよ…。これではグリコ戦に影響が出てしまう』
そう呟くと、慌てて室内練習場をあとにして伏古に引き上げた。
『なんとか、少しでも眠らないと』
しかし、いたずらに時は過ぎていった。
『うわあ!やべー遅刻だ。キャプテンが遅刻なんて、洒落にならないよ』
射場は、慌てて支度をして、なんとか集合時間には間に合った。
ウォリアーズの選手達は千葉にいた。
寝不足の射場は、飛行機の中で眠りたかったが、矢神がはしゃいでうるさくて、眠れたものではなかった。
彼はピカイチのムードメーカーなのだが、こうした欠点もあった。
明日からは、グリコとの3連戦なのだ。
ホテルに到着すると、射場は喉の痛みを感じていた。
『なんか、マズいなあ…。今夜こそはゆっくりと眠らないと』
射場は自分に言い聞かせた。
さすがにその夜は、ベッドに横たわると、すぐに睡魔が襲ってきた。
しかし、翌朝目覚めた射場は、喉の激しい痛みを感じた。
『ああ、やっちまったな』
頭もフラフラした。
しかし、朝食を摂ると、嘘のように良くなった。
でも、皆にうつしてはいけないので、監督には報告した。
監督からは、試合前の練習を休んで、直前まで部屋で安静にする様に指示が出た。
なんとか具合も良くなり、試合には出られそうだった。
試合が始まった。
その日の千葉ガルフスタジアムは、強風で恐ろしく寒かった。
射場はじっと耐えていた。
守備もなんとかこなしていた。
しかし、左腕の七林は初回に5失点して、チームのベンチの雰囲気は最悪だった。
それと比例するように、射場の具合も悪くなっていった。
場内アナウンスが、バッター射場をコールした。
射場はピクリともしなかった。
射場の異常にいち早く気付いたセットアッパーの東宮投手が、慌てて声をかけると、射場はぐうぐうといびきをかいて試合中なのに寝ていた。
金岡巧が『射場さん!』と怒鳴った。
しかし射場の顔は火のように真っ赤だった。
監督が飛んできて、射場の額に手を当てた。
ひどい熱だった。
射場は、スタッフに抱えられてベンチ裏に下がり、そのまま幕張の救急病院に搬送された。
試合は3連敗した。
射場は、病院のベッドで、その模様をラジオで、悔しさを押し殺して聞いていた。
一方、札幌の自宅に引きこもり、ジャオラの放送で試合を観ていた奈美恵は、射場の風邪の原因が自分にもある事などは知る由もなく、ただただ射場の全快を祈るしかなかった。
来週の、札幌ドームでの福岡ドコモ戦までには治るように、毎夜、枕元のあのホームランボールに語りかけていた。
心配で心配で、眠れない日が続いた。
学校の授業も上の空であった。
ドコモ戦の前日、奈美恵は、別の友人の美沙子と一緒にステラプレイスで買い物の約束をしていた。
地下鉄の札幌駅を降りて、ドックカメラの方に、二人であれこれと、学校の話をしながら歩いていると、向こうから長身の二人が、サングラスにニット帽で近寄って来た。