盛岡食いしん爺日記
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11月19日、朝6時起床。
私にとっては大変なこと。
早起きするため数日前からトレーニング。
夜は早く寝て目覚める時間を早くした。
数年前は、いつもの様に深夜に床につき、
頭の傍の目覚まし時計で起きて睡眠不足の一日を送ったものだ。
俄か仕込みの早起きは上手くいき十分眠ったが、
頭がすっきりとまではいかない。
7時15分に出発。
9時までに一関に着かなければならない。
大切な仕事だ。
まだ混む前の街中をインターチェンジに向かう。
盛岡南インターから東北自動車道へ。
その日は前日から寒波。
雪を心配していたが路面は少し濡れているだけ。
途中、コンビニで買った珈琲を飲みながら快調に走る。
花巻を過ぎ、北上にさしかかると、大地が所々白い。
奥州市に入ると、白さが際立ってきた。
今年見る初めての雪景色。
一関はもうすくだ。
中尊寺辺りのパーキングで休憩。
澄み渡る青空と樹々に積もった雪。
おそらく午前中のうちに溶けてしまうだろう。
枝の先の先まで白い雪。
一関で暮らしていた頃、
昼には溶けてしまったが、
庭の桜の黒い枝に同じ様に雪がついていた。
子供の頃、朝は早かったのにいつの間にか夜更かしになった。
ゆっくり車に乗り込みハンドルを握った。
Sabor a Mi · Eydie Gorme and Trio Los Panchos
仕事は9時から始まり夕方までかかった。
外はとっぷりと暮れ、街は明かりが灯る。
一関の駅前の駐車場に停めた。
思っていたより駅前は暗く人気も少ない。
中学2年の途中まで住んでいたが、
私の記憶では、
夕方の駅前はもっと明るく賑やかだった。
駅から路地を入ってすぐ、母方の祖父の小さな会社の事務所があった。
学生時代に東京からその頃に住んでいた花巻へ帰省する時、
一関で途中下車し祖父の小さな会社に寄った。
ドアを開け「帰って来たよ」というと、
ニコニコして手招き。
物静かで言葉少ない祖父は、
「ご飯食べたか?」
「まだ」
すぐに黒い電話で近くの中華料理店から出前を頼んだ。
あまり話すこともなく食べ終えると、お茶を入れてくれた。
そして「じゃ帰る」と言った。
祖父の手が財布に伸び、中から一万円札を取り出し私に差し出す。
「ありがとう」
そう言って事務所を出る。
背中に「寄っていけよ」と声がかかる。
母の実家に顔を出せということなのだ。
でも、3度に一度ぐらいしか寄らなかった。
私にとって一関は思い出があちこちに潜んでいる場所。
夕飯は駅前の「松竹」と決めていた。
歩く人が少ない外と違って中は賑わっていた。
数年ぶり、いやいや十年は過ぎているだろう。
壁には所狭しと有名人の色紙。
阿川佐和子さんまである。
松竹は創業大正9年(1920年)。
古くから伝統のソース味かつ丼を始めている。
うなぎ料理など懐かしいメニューも色々並ぶ。
サインを書いた人たちは、ほぼソースかつ丼だろう。
ここの人気メニュー。
周りのテーブルでもソースかつ丼が目立つ。
私も迷わずソースかつ丼。
丼には松竹食堂と。
サクサクのころもに厚みのある肉。
どちらかというと甘めのソースがたっぷり。
カツの下にはキャベツが敷かれている。
松竹のソースかつ丼は懐かしい味がした。
黙々と食べる。
美味しい。
紫波町にやはり「松竹」という店があり、
そこの看板メニューもソースかつ丼。
今では繋がりもあまりないらしいが代を遡ると親戚らしい。
そこのソースかつ丼とは、ソースもカツも違う。
ルーツは同じでも時が過ぎ、それぞれの味になってきたのだろう。
昔々、花巻の家に松竹の海老天が届いたことがある。
我がままで自由に育てられた母が祖父にねだったらしい。
一関からわざわざ松竹の大ぶりの海老天が長方形の大きなお盆にずらり。
祖父の後ろに運転手さんが両腕をいっぱいに広げ、
白い布巾がかかった長いお盆を慎重に持っていた。
20尾ぐらいは並んでいたと思う。
家族はポカンと見ていたが、
母は、大はしゃぎ。
祖父は、両手を挙げて喜ぶ母を目を細めて見ていた。
高校生だった私は海老天は大好きだったが心の中で呟いていた。
「海老天もいいけどお小遣いの方が・・・」
いつも祖父は長居しなかった。
運転手さんとお茶を飲みすぐ立ち上がった。
さっさと車に乗り込み、見送りに出た私を手招き。
手で小さなハンドルを回し窓を開ける。
私はもう分かっていて笑みがこぼれ、先に手を出しそうになった。
一関の街はだいぶ変わってしまったが、
大町、地主町や釣り山など面影は十分。
思い出の残る街を歩くと心が穏やかになる様だ。
今自分はどんな顔をしているのだろう。














