Angelina Jordan – I Have Nothing
<音楽が流れます、音量に注意>
突然、手で胸の辺りを押され、
小学2年生の私は尻もちをついた。
押したHちゃんは、慌てて大人の掌ほどもあるメンコを拾って走って行った。
片足を引きずりなからも凄い勢いだった。
たまたま小石にのり浮かんでしまった王様の様なメンコ。
私の小さなメンコがふわっとひっくり返した。
裏返しになったメンコは相手の物になる。
彼にとって大きなメンコは宝物だったのだ。
翌日、彼は母親に連れられ家に来た。
Hちゃんは、玄関先で泣きだした。
母親が、「また遊んでくれる?」と私を見た。
すぐに私の母が「勿論ですよ!」と応えた。
彼は聾学校に通っていた。
確か中学1年だったと思うが背も高く肩幅も広かった。
ただ小児麻痺のせいで、いつも片方の腕は曲がり脚も少し引きずっていた。
もう片方の腕や太腿はしっかりしていた。
私は幼稚園の頃、
園舎から何度か逃げ出した事がある。
逃げ出したつもりはなかった。
近くに消防署があり、網で囲われた池に亀が飼われていた。
甲羅に番号が書いてあり、軽く50匹を超えていたと思う。
二度目に見に行ってからは、担任の先生がよく母と小声で話していた。
そういう事だけはしっかり覚えている。
Hちゃんは、家が近所だった。
両親とも高校の教師で母親は、名の知れた音楽の先生。
どうして仲良しになったのかは覚えていないが、
小学校に入る頃には週に何度も遊んでいた。
時々彼は、私を優しい眼で見た。
始めは何を言いたいのか分からなかったが、
半年も一緒に遊んでいると表情や仕草で、
何となく分かる様になっていた。
元から彼は私の言う事は分かるのである。
ある日、遊んでいて少し遠くに行ってみようと盛り上がった。
歩いて十数分。
近くの川の堤防まで行った。
川べりは草地になっていて長く続く。
公園の様な場所で、犬を散歩する人、カップルに子供たちもいた。
二人だけで鬼ごっこしたり、意味もなく叫んで走ったり。
気がつくと太陽が沈みかけ人気も少ない。
「Hちゃん帰ろうか?」
と言うと首を横に振る。
しばらくして疲れ果てると来た道を戻りだした。
すっかり暗くなり、拾ってきた木の枝を振り回しながら歩いていた。
丘に段々に連なる家並みの灯りが見えた。
もう少しで家だ。
その時だった。
「Hちゃ~ん!」
「Yちゃ~ん!」
と続けて呼ぶ声。
ポツンとあった街灯の下で浮び上る2人の姿。
7、8人の大人が駆け寄ってきた。
その後の事はよく覚えていない。
ただ家に帰ると母から「彼と遠くに行くな」と恐ろしい顔で叱られた。
彼の親にすれば、私はちょっと孤独な小学生。
こっちにすればコミュニケーションが上手くとれない中学生。
それぞれに心配だったのだろう。
ひと月ほど彼は姿を見せなかった。
冬になりかけた頃、
玄関先に立っていたHちゃん。
「あん、そぐぐぐ、ぼうう」
「うん」と頷いた私に母は、家の中か庭で遊ぶ様にときつく言った。
冬が過ぎ、雪から雨に変わり出した頃、
母親に連れられ俯き加減でHちゃんが来た。
その年の春から関東に行くという。
上の学校に行くため一家で引越す事になった。
その時は実感がなかったが、
数日経ってどんな街にいるんだろうと南の空を仰いだ。
3年生になると、何故か数人の友達ができ、
ひとり遊びが少なくなった。
ランドセルを校庭の片隅に置いて、
先生に「帰りなさい!」
と言われるまで遊んでいた。
クラスの子たちと野球をしたり、
校庭にズックで円を引き相撲をしたり、
ドッヂボールもした。
何となく毎日が忙しかった。
中学2年になってすぐ、県北の小さな町に転校する事になった。
1年の頃にはスーパーボールで遊んでいて体育館のガラスを割ってしまったり、
廊下でキャッチボールしていて窓ガラスを割ったりもした。
教頭先生に呼ばれて叱られた。
それに英語や国語の先生が父を知っていて、
何々さんの息子と言われる事も嫌だった。
父の転勤は、単身赴任の案もあったが「行く!」と言った。
高校に入る時、県北の静かで小さな街から賑やかな内陸に引越した。
知らない人の中に入って行く事に特に不安はなかった。
1年生のお盆に家族と生まれ故郷に行った。
母が丘の中腹にあった家に皆で行ってみようと言い出した。
家はそのままだった。
すると隣の家の人が出迎えてくれた。
そして、2年ほど前にHちゃんが来たと言った。
「Yちゃんは?」と尋ねたそうだ。
ちゃんと聞きとれたという。
引越して遠くに行ったと答えると、ぽろぽろと涙を流したという。
Hちゃんと最後に遊んだ日、
彼は例の大切な大きなメンコを私に差し出してニコニコ。
私は、2度目の引っ越しの時、子供の頃の玩具は整理してしまった。
Hちゃんを思い出すこともなかった。
その話を聞いてからはお盆に帰る度、Hちゃんの顔を思い出した。
それから二十年近く経って母は逝ってしまった。
サラリーマンとなり忙しい日々を過ごしていた。
ある日、母の実家に行った日、人手にわたった家を見たいと思った。
懐かしい思い出に浸ってみたかった。
家は改築され大きく立派になっていた。
住宅の並ぶ丘は桜で有名な公園。
丘の頂上まで登ってみた。
遊んだ街が一望できる。
公園の端のベンチに座る中年の男性がいた。
私は坂道を下り始めた。
その人も街を眺めていた。
近くを通り過ぎるた時、ふと思い出したHちゃんの顔。
その人がこっちの背中を見ている気がしたが、
坂の急な勾配に加速する脚を止めなかった。
「確かめなくて、いいのか」ともう一人の自分。
数分後、麓の駐車場にいた。
車に乗ると、盛岡への到着時間を考えた。
予定の時刻には東北自動車を走れば間に合いそうだ。
盛岡が近づくにつれてあの横顔は、
壮年になったHちゃんかもしれないと思った。
母が一緒にいたら必ず声をかけたに違いない。
今は、あれでよかったと思っている。
仕事の関係もあり障がい者のスポーツ大会を手伝った事がある。
走る選手たちをスタート地点に案内する様に言われ、
目の不自由な方に説明しては手をとり、
耳の聞こえない方には目を見て大袈裟に手招きした。
終わり頃になって先輩に「自然に歩み寄れんだね」と言われた。
先日、3年ぶりの花巻祭に行ってきた。
その前に「マッシュ」で「オリザ」という名前の米粉のロールケーキを買った。
オリザとはグスコーブドリに出てくる稲のこと。
子供の頃はよく分からず何か不気味で遠ざけていた宮沢賢治の童話を
いい歳になってから、手にとる様になった。
その夜は、賢治もよく見た鹿踊りを篝火の中で見た。
祭りの余韻と一緒に盛岡に帰った。
翌日、冷蔵庫から取り出した「オリザ」。
珈琲を淹れ、「童話・グスコーブドリ」を読んだ。
イーハトーブに暮らす樵の息子グスコーブドリ。
冷害で飢饉となり両親を失い、妹とも生き別れ、
働いていた工場も火山の噴火で閉鎖となり苦難が続くブドリ。
その後、クーボー博士と出逢い、
ペンネン老技師の下でイーハトーブ火山局の技師となり、妹とも再会。
しばらくして大地が冷害で危機的な事態となる。
彼は、カルボナード火山を爆発させ、大量の炭酸ガスによる温室効果で、
大地を暖めようと計画するが、一人は火山の爆発から逃げられない。
反対する皆を説得し計画を実行した。
そして大地は、冷害から救われた。
昨日買ったのは、マロンクリームのオリザ。
切ると栗の匂いに包まれた。
米粉だけのオリザ。
きめ細かい生地は渋皮も使ったマロンクリームをしっとり抱きかかえ、
後味のいい甘さ。
口にした人は、たいてい微笑む。
子供の頃に感じた一つひとつの事は、
時に甘く、時に切ない。
そんな今までの全ての事が層をなし、今の私ができている。
M@chou(マッシュ)
岩手県花巻市星が丘2丁目21−22