盛岡食いしん爺日記
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盛岡市八幡町。
盛岡八幡宮に向かって気持ちのよい一直線の約500メートル。
通りの裏に並行したり路や交差する路地が多くある。
江戸時代、旧南部藩が盛岡八幡宮を造営。
城下から一直線の参道も造られ、茶屋などが建ち並ぶ歓楽街しとて栄えた。
その後、花柳界として賑わい、
本町の本街(ほんがい)芸妓と並び、幡街(ばんがい)芸妓と呼ばれた。
盛岡芸妓は、置屋制度とは違い、
いわば一人ひとりが個人事業者。
踊り、常磐津、鳴り物と修練を積んでいた。
明治の中期、江戸から常磐津の名人常磐津林中が盛岡に滞在。
3年ほどの間、芸妓達は林中のもとへ通い芸を磨いた。
その後も林中の紹介などにより、邦楽界の名人から手ほどきを受けた。
茶屋や遊郭が建ち並ぶ不思議な門前だったのだろう。
大正、昭和期に入ると料亭という形式が誕生。
それまでは茶屋などに入り、ほかから運ばれた料理が出されていた。
店の中で料理を作り、芸妓と遊興する形になったそうだ。
料亭や飲食店が立ち並び、あちこちの路地も賑わった。
社会人になった頃、先輩の後について来る街だった。
歴史の流れだけみると、ふんふんと、一見、遊びの世界だと思う。
しかし、その土地の文化に及ぼす影響は計り知れない。
料亭など「和の美」を造るのは、
大工、建具、畳、壁塗り、庭師などの「人」
そして材料を造る「人」
材木、用途にあった土や石、植木、塗料、和紙など、
多くの人が携わり、一翼を担う。
文化とは多くの人々が関り、創り上げるものだと思う。
誰かが欠けても継承が、途切れるかもしれない。
何世紀も続く「物」そして作る「人」。
脈々と受け継がれてきたが、それは奇跡的なのかも。
今は八幡界隈に一軒の料亭「喜の字」が残るだけ。
そのほぼ真ん中辺りに蕎麦将軍がある。
2019年の冬に開店。
直後にコロナだった。
見事に乗り越え、今や人気店の仲間入り。
Dara Maclean - For Once In My Life
衰退した八幡界隈だが、
毎年の様に新しく始まる店もある。
八幡町にはそば屋が良く似合うなぁ~
蕎麦将軍は、ひとりでゆっくり食べられるカウンター席も用意した。
昼時を避けてやって来た。
大将が、
「どうも、いらっしゃいませ、体の具合はどうです」
と言う。
SNSで知ったらしい。
「復活しましたよ」と笑って見せた。
そばつゆと蕎麦猪口が置かれる。
「先に、そば湯を飲みたいのですが」
注ぐと沸き立つ鰹節の香りに包まれ、そばを待つ。
なんだかそばツウになった錯覚。(笑)
メニューを片手に、壁の貼り紙に目が止まる。
うん、決めた。
「もりそば」と単品で「さば煮」にした。
時々、「きまぐれそば」で楽しませてくれる。
青み魚は体に良いと聞く。
近頃は意識して食べている。
味噌にではなく出汁で煮ている。
鯖独特の匂いはさほど感じない。
刻んだ生姜もいい。
気がつくと鯖を半分ほど食べていた。
あれれ、とそばに箸を向けた。
まずは、つゆに浸さずひと口。
そばの風味が良く、コシがある。
前よりコシを感じるのは、久し振りのせいだろうか。
美味しい~
そば湯を飲みながら見た雑誌の真似をしてみた。
箸上げのシーンは、手前から少し斜めに。
なるほど、この方が伝わるかも。
大将への挨拶は、
「相変わらず美味しかったです。また来ます!」
暖簾を潜れば青い空。
盛岡市八幡町、番屋向かい
蕎麦将軍