母と伯母の笑顔の写真は、いつも眩い。
子育ても一息、姉妹の人生もこれからという時、そこで二人の時間は止まった。
学生時代の夏、アパートの狭い部屋で昼寝していると夢に伯母が現れ「今日は沢山、友達が来るよ、食べ物、飲み物はあるの?」と微笑んで消えた。
六畳の部屋には机、冷蔵庫や本棚があり、露わの畳は三畳ほど。その日の夕方、二組の友達がかち合い寿司詰めになった。夢のとおりに。
窮屈と騒々しさから呑みに出ることにして6人が立ち上がりかけた時、いきなり窓の手すりに、カラスが止まり「カア」と三度、鳴く。皆は、身じろぎもせず突っ立っていると再び三度鳴き、飛び去った。普段見る姿と違って綺麗な黒だった。
庭を隔てた大家さんが駆けて来て、母からの言づけを伝えてくれた。覚悟は出来ていた。伯母が会う度「あなたは友達がいっぱいで、いいね」と言う笑顔を新宿に向かいながら思い出していた。
長野の善光寺の門前町のカフェで一息つきながら、あの日の事を思い出していた。母達がここに座っていたならば、大はしゃぎだろう。
その、知らせをくれた母も数年後、突然、白い陶器の洗面台に濃い緑色の液体を吐いて倒れた。癌は、胃の全体を硬化させ肝臓、膵臓そして胆嚢にまで転移していた。開腹したが、胃から腸にバイパスを通し、食べ物を逃がすだけの手術で家に戻った。
長くても二か月の宣告だったが、母は、春の終わりから夏、秋、そして冬と半年以上も生きた。でも、遠くを眺める母の眼に未来は映っていなかった。時間が止まった様な横顔が今も輪郭がくっきりと残る。
母の病室は、見舞客で賑やかだった。起き上がれなくなると訪れる人、家族にも今までの感謝をを言い出した。でも、僕には「さあ、生きて見せる、負けないから!」と拳を握って見せるが、片方の手の指は、だらりと伸びたままだった。
その二日後、ゆっくりと瞼を閉じて眠る様に逝った。僕と母の義理の妹、二人にだけ、「ありがとう」は無かった。
通夜は二晩続き、多くの人が別れに涙した。長い廊下、広めの玄関に人が溢れ、かき集めて来た数十枚の座布団では、どこにも足りなかった。
姉妹が好きだったレモネードを頼んだ。
そしてアップルパイを頼んだ。美味しい。
なんでかな? 母のアップルパイの味を思い出せない。
母の葬儀が終わり、頬のこけた父が、ぽつりと言った。
「俺の時は、静かなもんだろうな」
母の四十九日を前にして父の病が見つかった。
「俺は、大丈夫だから事実をそのまま伝えてくれ」と言った。
「リンパ系の癌だった。抗癌治療で5年生きる可能性は25パーセント」
しかし、十年も闘病した父は、最後の三日三晩、チェーンブレストが激しくなり背中が反り返り、血圧計や心拍数のデジタルの数字が激しく動く。「もう、いいから、ゆっくりしていいよ」と心の中で呟いた。すでに背中の筋肉は無くなっても反り返り続ける。背骨、肋骨が悲鳴を上げていたはずだ。
でも父は、病と闘い、生きたのだ。孫の二十歳の着物姿を見届けて母達に山ほど想い出を抱えて逝った。
夕暮れの街角でセーラー服の数人の女学生がカバンを振りながら歩いていく。友達と歩く幻の母に何度か出逢った。
十数年以上前に訪れた時と違う雰囲気を感じた。門前町のあちこちに素敵な場所が出来ている。街に新しい風を感じた。
さて、全身をじっくり浴びねば。
帰り道では青空も一瞬、顔を出したが、長野駅に着く夕方には小雨が降り出した。
きっと母や伯母は、おやきをあちこちで買い、父は、更科の蕎麦をお代わりしたに違いない。
今日は、代わりに存分に味わった。きっと母は、野沢菜のおやきで父は温かい鴨の蕎麦だろう。でも僕は、粒あんのおやきと蕎麦は、天ざる。
のど越しがよく、タレが食いしん爺には合う。
戻る途中、同じカフェに寄り、珈琲を飲んだ。
猫だって瞼を閉じるまで、ひょっとしたら咲いた花だって散り際でも生きたいのかもしれない。まして人は、たいてい自分の居場所を見つけ、そこで生きていたいと思うのではないだろうか。以前、ある大先輩が、布団に入ると明日、眼覚めるだろうかと思う夜があり、翌日の朝日に続いた命を感謝したくなる日があると語っていた。
一口飲むごとに珈琲色の想い出が湧いて来る。美味しい。
新幹線は便利だ。
盛岡を九時に発ち、昼過ぎには善光寺で蕎麦を食べている。善光寺にお参りし、長い長い門前町をゆっくり歩き回り、六時過ぎに乗っても九時頃には、盛岡に居る。
空いた一日、ふと母に惹かれて善光寺参りとは、前夜まで思いもよらなかった。さあ、後は大宮で乗り換え缶ビールを飲んだら、たぶん一寝入り。
その気になれば日帰りで十分、旅行好きだったの母のあちこちに潜む、
面影に逢いに行ける。