事務室の書棚やパソコンが激しく動き、倒れ始めた。みんなで途方に暮れて真ん中にいた。
ドアが激しく開いたり閉じたりしていた。
なすすべもないとは、あのことだ。みんなの頭の中にあったのは、
「これより、強くなったら・・・・」だった。
それが爺の東日本大震災の日の様子だった。
凄惨な現場にいた人。内陸で家族の安否をきずかっていた人。当日から家族の安否の
確認や支援のために多くの人が被災地に限られた情報だけで向かったと聞いた。
現地に仕事で行っていて、何とか宮古から県南に帰ることができた同級生の話を聞いた。
ガソリンをちょっとだけ足すことができ、宮古界隈の通行できる道路を必死に見聞きして
盛岡にたどり着き、それから信号の停止した国道4号線を一関まで戻ったのだ。
数え切れないほど、色々な話を聞いた。
爺は、まだ3月の震災直後に岩手県内の被災地を殆ど回った。
とにかく、言葉が出なかった。
震災後、盛岡に居て家族の消息が分からなかった人々の心労も並大抵ではなかった。
行きたくてもガソリンが無かったり、町の様子が分からなかったり・・・・・
爺の知っている人の家族は、津波にのまれ、何日かして見つかった。見つかる前の晩に、
「深いけれど、透き通った海の中を楽しそうに泳いでいて、こっちを見て笑った」という夢を
見たそうだ。
翌朝、電話が鳴った時、一つ大きく息をしてから受話器を握ったという。
その人もガソリンの調達に苦労した。
色々な人から、様々な話を聞いた。聞くだけしかできないのだ。
その後、仮設や災害廃棄物の処理が課題となり、全国の支援を受けながらだんだんと
加速度がつき、そういう部分は進んでいった。
衣食住が足りた後、人が生きるためには、郷土への誇り、それを支える文化が大切だと思い
知らされた。お年寄りが復活したお祭りを眺める様子や、子供達がスポーツ選手やミャージシャン
を見る時の輝き。
祭りや夢というものが、いかに生きる勇気に繋がるか、ということをまのあたりにした。
一年以上が過ぎて、街が壊滅状態のままの、ある町の仮設住宅の人々に炊き出しをしに行くことと
なり、ある料理研究家が快く引き受けてくれた。
事前に仮設住宅を訪れると
「役人か! マスコミか! だったら何もようはない!」と怒っていた。しかし、炊き出しの相談に来た
ことを知り、柔らかな笑顔になった。爺は、昨日のことの様に覚えている。
そして、役場の方からも要望を聞きメニューを決めた。
冬だったので、やはり「ひっつみ」「小豆に入っただんご」とか懐かしいものの話になった。
「食」も文化だ。長い間に代々、地域の人が親しんできたものなのだ。
震災以前の食べ物をほんのちょっとでも味わってもらいたいという気持ちは仮設の人達には
伝わり喜んでいただいた。
しかし、部屋から一歩も出てこない人達もいた。
被災した人々は、5年が過ぎた今も例えようのない想いを抱えているのが現実だろう。
とてつもない災害を体験した人々、それをまのあたりにした人々など「一億二千万人」の
震災があるのだろう。立ち直った人、まだ立ち上がれない人など一人一人、それぞれに
抱える想いがある。
爺は思うのです。街のハードが進みだしても、住む人達の心に灯がともらないと・・・・
盛岡に住んでいる方で家族を亡くした方が、一年ほどして峠を越えて故郷に向かう時
「トンボの様に透き通った羽を付けた沢山の虫の様なものが、無数に峠の谷から空を心地
よさそうに飛んでいるのを見ました。信じられない話でしょ、幻だったのでしょう」と話していた。
また、ある人は、
「1週間以上泊まって居ることができない。何も無くなった町を見ていられない。まだ、私には、
無理。でも、お祭りは楽しい」と言った。
「心災」心の傷は、人それぞれ。復興は難しい。
一つ一つを均一化は、できない。
爺も、せめて、それぞれの震災と心災があることを胸に刻んでおくとしよう。
そう言えば、陸前高田の「北限の柚子」は、今年、どうだったのだろう?
震災の翌年、津波に浸かったものの生き延びた柚子は、翌年、かなり小粒だったものの、
見事に実をつけた。
今年の出来は、どうだったのだろうか?
助かった柚子を縁側で眺めていたお爺さん、お婆さんは元気に暮らしているだろうか?
「祈りの日」盛岡八幡宮をとおりかかったら、拝殿前の階段に「追悼」という灯火が浮かんでいた。
祈りながら、出来ることはある。まずは沿岸のものをもっと食べようと思った。
今や復興支援の大ヒット! 素晴らしい企画だ!
「サヴァ缶」フランス語でサウ゛ァは「元気?」の意味。
こんな企画が次々と出てきたら、なんだか嬉しくなる。