参拝日 2024年1月31日(水)
岡崎市に用があったので、小雨の中、三河別院に行ってきました。
真宗大谷派(東本願寺)の三河の別院になります。
駐車場はとても広く学校の運動場みたいです。
山門です。
駐車場の端の方に見事に梅が咲いていました。
山門を入って左手に手水舎。
水は出ていませんでした。
山門の近くには鐘楼。
立派な本堂です。
大きな石碑にこのお寺の由来が書かれています。
三河の真宗大谷派の歴史が書かれているので、かいつまんで紹介しようと思います。
一部石碑から読み取れない部分は、三河別院のHPも参考にしています。
三河別院の由来
18世紀後半に、赤羽御坊と暮戸説教所が設立されました。
注)赤羽:現西尾市、暮戸:現岡崎市(国道1号線に暮戸という交差点あり)
明治になり、1889年東本願寺21世厳如(ごんにょ)の時に、赤羽御坊と暮戸説教所を岡崎に移すことになりますが、赤羽や暮戸の信徒より存置陳情が出されたため、移転は取りやめになって、1890年に丹後峯山別院より本尊を現在の地に移転して三河別院としたそうです。
三河の一向一揆
三河は、親鸞が関東で約30年布教後に関東へ戻る際に立ち寄っており、本願寺3世覚如が布教し、8世蓮如が勧化し、発展しました。
注)覚如:親鸞の孫、蓮如:浄土真宗の中興の祖
そして、三か寺(本証寺、上宮寺、勝鬘寺)、5か寺(浄妙寺、慈光寺、正法寺、無量寿寺、願照寺)を中心とする真宗門徒と徳川家康との対立となりました。
一揆後は、三河門徒禁制の地となっていましたが、20年後に許され、300年間徳川幕府のあつい庇護を受けました。
注)当時浄土真宗は、一向宗といっていました。
廃仏毀釈
明治の廃仏毀釈により、石川台領など多数の殉教者を出す事態になりましたが、かえって三河門徒に護法の念を起こさせる逆縁となり、仏祖崇拝はますまる高まりました。
太平洋戦争
1945年7月20日の太平洋戦争の空襲によりこの大伽藍が一朝のうちに灰塵と化してしまいました。
その時門前在住の門徒宇野真太郎が火焔の中から本尊を搬出し、経蔵本も類焼をくい止められました。
被災後ただちに仮本堂を建て仏祖崇拝を怠りませんでしたが、四半世紀を経た1970年に耐火耐震の本堂をみごとに復興しました。
ひとつの石碑に近世の真宗の歴史が刻まれています。
廃仏毀釈や戦争といった誤った政策は、反省としてこのよに歴史として残しておくのは良いことです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。