「す、水華、さん……」
彼女が言おうとしてることが、なんとなく予想出来た。背筋が、うっすらと寒くなっていく感覚に震えてくる。
「けど兄さんは忘れた。自分を守る為に、兄さんは」
やめてくれ……もう、言わないでくれ、分かってるから、もう理解、出来てる──
「自分の中でチカコさんをもう一度、殺したんや」
「うわああああああああああああああっっ」
叫んだ。叫ぶしかなかった。
「只、兄さんの脳味噌が悪いんやないからな。脳味噌に、そんな辛い作業をさせてしまうほどに悲しみすぎたのが原因なんやから。
けど、忘れられてしまうのは、悲しいやろ? 特に、好きな子から、おらんかった事にされてしまうなんて、な……」
最後は、少し穏やかな口調になって水華さんは、何だか悲しそうに微笑んだ。
「もちろん、人の心なんてものは、そんな簡単なもんやない。このまま、忘れ続けとった方が、本当は兄さんにとって良かったんかもしれん」
オレは、直ぐに首を振った。きょとんとする水華さん。
「いや、よかったんだよ……」
このところ、ずっと感じてた違和感が、今はもうないことに気付いた。
ずっと、何処かで引っ掛かってたんだ。どこかで、思い出さなきゃいけないことだったんだ。
だから、オレは此処に来たんだ。
そう、告げた。笑って言ったつもりだけど、頬を涙が流れ落ちていくのがよく分かった。
「兄さんがそう思えるんやったら、きっと、そうやったんやね」
穏やかに微笑む水華さん。
けどな、と水華さんは指を一本立てた。
「一応補足しておくと後追い自殺や、死者がおるように振る舞うのも、ええ立ち直り方ではないからな。
死んでまうのは当然やけど、死者がおるように振る舞う人は、大抵周りと通じられんようになっとる。その人の中では死んでないんやからな、周りがどう言うてもポカンや。言い換えれば、周りの人とは、違うところに行ってしもうたんと同じや。死者に寄り添うてる以上、心だけその人も彼岸に行ってしもうとる。
前者は肉体を、後者は精神を、死んだ人の所為で殺してしもとる。亡くなった人を殺人者にしたらあかん」
確証はないよ、と付け足す水華さんだけど、とても納得出来た。
もしかしたら、オレもそっちに行っていたのかも知れない。それを止める為に、オレの脳はオレに忘れさせた。その結果が、今のオレの姿だ。ちゃらんぽらんでバカ丸出しの、今のオレだ。このままいけばオレはバカまっしぐら。思い出したから今のオレ。悲しくて辛いけど、もう空虚感も違和感もないオレ……
「オレ、やっと、千佳子の死を悲しむことが出来たんだな……」
そう、呟いて飲み干したお茶は、すっかり適温になっていて本当に美味しかった。
「ありがとう、水華さん」
体が自然に、おじぎした。深深と。あれ? これじゃ土下座みたいだ。まあ、いいか。
「い、いややわ兄さん、そんなん要らんよ。ちょぉ、照れるわやめてえな」
肩や頭を叩かれて顔を上げると、水華さんは顔を真っ赤にしていた。
ああ、なんだ。
よく見れば全然、千佳子に似てないじゃん。
「ま、まあエエわ。兄さんが満足出来たんやったら、ウチも長広舌なんか披露した甲斐があった、ちゅーもんや。ちょっと、待っとき」
慌ただしくそう言うと、勢いよく立ち上がって棚の方へと駆けていった。瓶の方だ。
少しの間ガチャガチャと音が聞こえ、程なく水華さんは小さな瓶を一つ、持って戻ってきた。さっき見た(中身ひっかけられた)それの半分ほどしかない、色も濃い緑色の瓶だ。
「これ、つけてみ」
言いながら、座りきらないうちにオレに瓶を放った。慌てて受け取ると、中にはなみなみと液体が入っているのが分かった。
ねじ込んである蓋を取ると、爽やかな香りが鼻に飛び込んできた。
「何だ? この香り、嗅いだこと、ないなあ」
「それ、兄さんにあげるわ」
首を捻るオレに、水華さんはちょっと、自慢げに笑って言った。
「ウチなりの見立てやけどな、兄さんには森林系の香の方が似合うと思うねん」
「森林系? それなら、確かに付けたことないや…」
頷きながら、蓋についていた雫を手首に当ててみた。胸が空くような、気持ちの良い香りだ。
気に入ってくれたみたいやな、という声に顔を上げてみると、再び胡座をかいた水華さんが笑っていた。
「矢っ張りな、香っちゅーのは大事やで。ちゃんと、自分に似合うたもんをつけたらな、自分にも香にも、香を作った人にも失礼や」
だとすれば、オレは今迄相当、失礼だったわけだ。
今ならもう、あの香をまとう気にはならない。
「あ、ありがとう水華さん…けど、これ、幾ら…うぶっ」
言い終わる前に肩を叩かれた。思いっきり。ものすっげー痛い。
「す、水華さ…」
「阿呆。あげる言うたやろ。そのまま持って帰り!」
今度は鼻先を指で差された。てゆーか爪が刺さった。痛い。
全てがオーバーアクションだ、この人。今更だけど。
「只、それはウチのオリジナルやから、ふつー店には売ってへんで」
「え、じゃあ、なくなったら……」
「似たような香を探せばええねん。近い感じのもんやったら、ちゃんと似合うよって。もし、それで物足りんようやったら」
そこで、何故か水華さんはオレの目を見た。じーっと。
それから、なにか満足したように頷いて口を開く。
「また、遊びに来いな」
「え?」
また?
吃驚した。そんなこと、言われるとは欠片も思ってなかったから。
「あれ? でも、此処は悩みとか抱えてて波長とかゆーのが合ってないと入れないって、朔ってヤツが言って…」
「それは初見さんの話や。兄さんはもう、初見さんやないなるんやから、ちゃんとした手順を踏めばどんな時でも来られるようになってんねん」
オレの慌てようも見透かされていたのか、水華さんは半眼で即答した。
そっか、来る時に見かけたオッサン、常連みたいだったよな……また、来れるんだ。
「ああ、但し次に来た時は、ちゃんと料金とるからな?」
「え!」
自分でも、顔が歪んだのが分かった。でもまあ、フツーそうだよな。安心しい、ボッたりせえへんから、と水華さんは笑った。
また、会いに来たいと、思った。
そろそろ時間だと言われて、帰ることになった。次からの訪問方法は灯矢ちゃんが教えてくれた。忘れないようにしよう。
「あれ?」
またしても吃驚した。
灯矢ちゃんと朔に見送られてあのゴツイ木の門を開けると、とても見慣れた風景がそこにあった。オレの住んでるマンションの、エントランスが直ぐ近くに見える。
「……夢?」
あまりの唐突さに、思わず振り返ってしまう。
見慣れた、向かいの建物がある。
腕時計に目を遣った。最後に携帯で見た時間から、記憶が確かなら二時間弱、といったところかな。あのまま、真っ直ぐ歩いて帰ったとしたら大体、同じくらいの時間が経っただろうし……
空が、うっすらと色づいてきてる。
夢……だったのかな…でも、
「ん?」
パンツのポケットに違和感がして探ってみると、果たしてそこには、水華さんがくれた香水瓶が入っている。
夢じゃないんだ……
あそこに、【月光酒】に入るまでは無かった、穏やかな満足感がある。なんだか、とっても気分がいい。
どれくらいぶりだろう、気分がいい、なんて。
と、携帯が鳴った。
「誰だろ…うわっ」
上着のポケットから引っ張り出した携帯は、勢いよくオレの手からすっぽ抜けてアスファルトを滑っていった。
そのまま、溝に落ちた。
どぷん、という鈍い音が聞こえた……多分、じゃなくてもう、使えないだろう。
「あ……まあ、いいか」
呟いてから驚いた。まさかオレの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
でも、何でだろう、あれだけ溜めていたメモリも写真も、別に大事だと思えない。誰一人として、記憶している番号がない。そもそも、遊び用の携帯だったはずだから無くなって困るものなんか入ってない。
ただ、部屋にある携帯からでもいいから、美咲に謝りたいと思ったのだけど、それも今落ちた携帯のメモリにしか電番がない。それだけは、残念だ。
「まあ、いいか……ねえ」
呟いた自分の発言がおかしくて、思わず少し笑った。
眠ってない筈なのに、あんまり眠いと思わない。
部屋に戻って、片付けでもしようかな。
それが終わったら、服を買いに行こう。もっと、似合う服を。髪も、元に戻そう。傷むだろうけど仕方ない。
「変なの」
呟いてみたものの、それもおかしくて噴き出した。
急にやりたいことが、沢山出てきて大変だ。
小走りに、エレベーターへ、いや、
階段を駆け上がりたかった。
月光酒 抄 ~香~ 了
ここまでお付き合い頂き、お疲れ様でした。
短編小説ではあるんですが、ブログという形での公開となると書式や記事の幅の関係から、短めに分けないと読みづらくなってしまうのが難点ですねσ(^_^;) この後なるべく急いで出さないといけない記事があるので、更新を急ぎました。
ともあれ、楽しんで頂けましたなら、それが何よりの幸いでございます。
次からは、ちゃんとテーマで分けますね(^_^;) 榊真琴でした。