先生と呼ばれて 教師と言われて -2ページ目

先生と呼ばれて 教師と言われて

腹黒のグロの部分。
教師でいること
女性でいること
中学生と向き合うこと

そのまま
話せる場所はそう多くない

乙武さんのツイートに
「日本の教育はサラーリーマン養成所」
とあった。

乙武さんについて思うところ

というより

この言葉自体について考えたい。

日本の教育は間違っているのか。

集団を意識しすぎているのは、果たして問題か。

なぜ、整列をし前にならえをするのか。


私は
メニューを選べない給食(アレルギーは別にして)も集団行動も、非常事態、危機管理において非常に大切だと考える。

もし、大規模な危機に直面した時

整列することができる。
というのは、パニックを収束に向かわせると思う。

ワガママを出さない。
集団の中の自分を考える。
今目の前にあるものを食べる。
このことは、天災下などにおいて、多くの命が
生き残るために大切だと思う。


大切なのは
いかに 集団行動を強いられていく中で
自分を表現し、その中で役割を見つけていくか、だと思う。
集団行動のなかで、個を出していく力だと思う。

それは、発達障がいを持つ子供も身体的障がいを持つ子供も同じで
その障がいを、大きな集団のなかで活かしていく力が必要なのではないだろうか。
そんな違いを持つ各々を、活かしていく個の集団としてあるべき姿を模索するのが学校ではないだろうか。

ある程度学力で分けられた学校というより
さまざまなバックグラウンドをもつ小中の公教育において、集団行動が大切だと思うのは
「同じになれ」ということではなく、「違うものたちと補い合って1つの集団としてあることができるように、同じ目線に立つことを学べ」という考えのような気がする。

そして、時に「強いる」場面が出てきた時、子供達は意外に、自分の能力以上のものを発揮したりするように思う。


日本の学校教育は果たしてサラーリーマン養成所なのだろうか。
そして、それではいけないのだろうか。

もちろん、現状の学校教育がすでに完成しているとは思えないし、改革が必要だと思った上で。
わたしは運動部の顧問です。
吹奏楽しかり、合唱しかり、運動部に限らず
大会シーズンは連休や、長期休暇にあたります。
つまり、そこに向けて練習するので
ゴールデンウィークも年末も殆どないようなもの。

この土日も、もちろん練習です。
ほぼ1日つぶれます。

ある先生は「部活しててちょうどいい、丸一日休みなんて、なにしていいかわからない」
と言います。
そんな人は顧問にうってつけでしょう。

わたしは?

休みたい。
毎日毎日怒涛の仕事をこなし
頭が、生活が、学校一色になっていく自分を
リセットしたい

1人の「先生」でない「私」になりたい。

みなさんは、どう思われるでしょう。
私は甘えた教師と映るでしょうか。



塀を登って脱出する生徒がいる

教室に入らず、授業は号令からでなく
教室に生徒を入れることから始まることが当たり前の学校がある

「死ね」
と言われることに慣れ、

殴りかかられることに
備えながら生徒と向き合うこともある

教材研究に当てる授業の入っていない時間は
廊下に立って
生徒を追いかけて
終わる

生徒のマスカラを落とすことから始まる朝がある

生徒の起こした問題に向き合って、日付が変わっても学校にいる夜がある

名乗らぬ地域の方からの電話に1時間
結論のない保護者との電話に3時間
耳を傾ける時もある

まだ
まだ
誰も知らない
誰も語らない
学校がある

「教師」だから 仕方ない?

私は教えたい
人として大切なこと
生きることに必要なこと

でも
「教科」は?
いつ教材研究する?
いつ教材を作る?
いつ採点する?
いつ?
いつ??

そうしてまた
誰も知らない学校が終わり

教師批判の言葉に
心を乱される