「空」の中に、心を汚すものは何もない | 宇宙の知恵☆人生を歩む地図

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「人生を歩む地図」なくしてあなたは
この世をどのように生き進むのでしょうか?
地図なくして、あなたは迷わず進んでいけますか?


さて、この節は、いきなり初期仏教の概念が否定されるという、
劇的な展開になる、まあ、普通に解釈したら、この節で内容の
矛盾が生じることになり、ここをどのように読み解くかが、
「般若心経」解読のポイントです。




是故空中無色 無受想行識
ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき

無眼耳鼻舌身意
むげんにびぜっしんい

無色声香味触法
むしきしょうこうみそくほう

無眼界 乃至無意識界
むげんかい ないしむいしきかい

(舎利子よ)それゆえ「空」の中には色はなく、受想行識もない。
眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身もなく、意もない。
色もなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れもなく、考えもない。
眼界から意識界に至るまですべてない。


それゆえ「空」の中には色はなく、受想行識もない」とは?
うん、頭を整理する意味で、最初から前節までの内容を簡単にまとめてみます。

観音様は世の中は「五蘊皆空」と見定めたがゆえ、

諸々の苦はなくなると説き、
色即是空 空即是色で、色は「空」であり、「空」は色である、とし。
受想行識も色と同じく「空」である。
そして、この世の出来事、現象、それらすべて「空」ともいえる。


ここまでが、観音様が舎利子に前節までに説いた内容です。
観音様の立場から見たら、この世の中、我々の住んでいる社会、

人々の生活、生き様、生まれて死ぬまで、そして死んでからも……
そう、すべては「空」として肯定されてるものであると説いてるのです。

まあ、言ってしまえば、それが理解できたら、

「悟り」(救われ)ということでしょう。
ここで、この節で使われている語句を説明します。

まず「受想行識」は人間の精神作用ということです。
受は、感覚とか知覚などの感受作用です。
想は、感受したものを心の中でイメージすること。
行は、そのイメージを意志に移行させること。
識は、識別、認識、判断。

そして「色」と「受想行識」をあわせて「五蘊」といいます。
色とは物質、人体と初期仏教では解釈されますので、
「五蘊」とは体とその精神作用、すなわち人間となります。

眼耳鼻舌身意は、身体の感覚器官で、それを六根といいます。
それら感覚器官で感じるモノは
色声香味触法といいまして六境といいます。

六根のそれぞれは六境の感じられたモノに対応してます。
そしてそれぞれの出会った結果として生まれた認識を
眼識、耳識、鼻識、舌識。身識、意識、を六識といいます。
六根、六境、六識で十八界といいます。

この節では
それゆえ「空」の中には色はなく、受想行識も無い。
そして、上記で説明した十八界は空の中には無いとしてます。

文字どうりですと、これまで「五蘊皆空」
色は「空」であり、「空」は色である。
受想行識も色と同じく「空」である。

とした教えが、この節でいきなり「空」の中には色は無く、

受想行識も無い。
そして十八界も空の中には無いとしてます。

「色」と「受想行識」の意味がこの節では初期仏教での概念です。
同じく、十八界すべてを無で否定して、初期仏教の理屈を否定します。
この無での否定は次節まで続き、十二因縁、そして初期仏教の中核である
四諦八正道までも次節では「空」の中には無いと否定します。


ということは、前節までの「空」であるとする「色」と「受想行識」は,

初期仏教での概念ではなく、

般若心経で再定義された「色」と「受想行識」ということになる。

「受想行識」は人間の精神作用、心とも言える。
それがこの二つはどのように違うのかをあきらかにしていけたら、
救われへの道も、一歩前に進めるでしょう。

そこで、私の理解ですが、

再定義された「色」と「受想行識」は、超越人格からの導きに対して

その導きを受け入れられる「色」と「受想行識」です。

思考のベクトルが超越人格と同じの統一ベクトルです。

それに対して、初期仏教では「色」と「受想行識」の概念が、

錯覚ベクトルである、ということなのです。

 



――般若心経が編纂された時代は、釈迦入滅後、

さらに数百年経った西暦紀元前後以降といわれております、

その頃の仏教は混乱期ともいわれ、初期仏教を否定するかたちで、

大乗仏教も生まれております。
諸々の大乗仏教の代表的な経典も、この時代に編纂された経典が多い。

経典のサンスクリット語からの漢訳事業は2世紀後半から始まり、
11世紀末までほぼ間断なく継続された。

尚、ここで解読している「般若心経」は紀元649年に、

唐の玄奘三蔵によりサンスクリット語写本から漢訳されたものです。――

初期仏教での感覚的な理屈は、悟り、あるいは人々の救われ、
人々の幸せとは関係ないと言いたいのでしょう。

それも「空」は実体であり、「受想行識」から「色」への道、
そして「色即是空」を説いてるのが「般若心経」です。

「空」は実体がないとする立場ですと、何もかもないと解釈され、
行き着くところは無常論、所詮何もないモノにこだわるから苦しみが生まれる、
という教えでは、なんとも虚無な思想で教えです。

人間がモノにこだわり、自由を求め、幸せを求めてきたから、

文明が発展し、文化が育ち、世の中が豊かになった、

そして未来も明るく感じられるのです。

 

私はこの本を愛読しました