学歴の正体とは何か?そしてこれを評価することにどういう意味があるか?
大学名で人間を順位付けするような番組があります。「東大だからすごい」「早慶だから優秀」「この大学出身者は勝ち組」まるで大学名が、その人間そのものの価値を表しているかのように扱われている番組があります。こうしたコンテンツが一定の支持を集める理由は分かります。人はランキングが好きだからです。分かりやすい数字やラベルで人を比較すれば、見る側は手軽に優越感や劣等感を味わうことができます。しかし、私はこうした学歴の扱い方に強い違和感を抱いています。なぜなら、学歴という結果は、決して本人の努力「だけ」でつくられたものではないからです。当然ながら、努力は不可欠です。机に向かって勉強を重ねなければ、合格通知は届きません。ですが、真に直視すべきは「その努力を可能にした前提条件(初期設定)」です。生まれ持った脳のスペック。育った家庭環境や親の教育意識。高額な塾代や学費を何食わぬ顔で支払える経済力。これらはすべて、本人が自分の意思で選んだものではありません。生まれた時点で与えられた「運(ガチャ)」の産物です。頭の回転が速かったから授業を理解できた。勉強が得意な特性だったから努力を継続できた。恵まれた環境があったから、学ぶ機会とノウハウを得られた。つまり、努力というギアが噛み合って回転した背景には、それを支える圧倒的な土台(ガチャ)が存在しているのです。さらに言えば、受験の土壇場を分けるのは「ただの偶然」です。難関大学のボーダーライン上には、数点差の中に膨大な受験生がひしめき合っています。当日の体調、問題との相性、たまたま直前に見直した知識が出たかどうかの運。そうした紙一重の偶然が、最終的な合否を分けます。つまり、学歴という結果は、能力 + 環境 + 経済力 + 本人の努力 + 受験当日の運これらが奇跡的に噛み合った「確率の産物」に過ぎません。そしてその構成要素の大部分は、本人が選択不可能な「ガチャ(運)」で占められています。それにもかかわらず、メディアやYouTubeではそのプロセスのすべてを削ぎ落とし、「この大学だから上」「この大学だから優秀」という単純なマウントゲームに変換して消費しています。しかし、運の要素が極めて大きい結果を評価するというのは、要するに「その人が持っていた運の強さを褒めたたえている」ことと同義です。極端に言えば、「東大卒だからすごい」と手放しで持ち上げるのは、「宝くじで高額当選してすごい」と褒めているのと構造的に変わりません。もちろん、学歴は宝くじとは異なり、本人の努力も反映されています。しかし、本人の選べない条件や運が色濃く反映されている以上、学歴だけで人間そのものを評価することは、結局のところ「引いたくじの引きの強さ」を評価しているに過ぎないのです。宝くじで例えてみましょう。ある人は1億円当たった。ある人は1,000万円当たった。ある人は5,000円しか当たらなかった。その当選金額だけを見て、「1億円当たった奴は人間として超優秀だ」(=東大理Ⅲは超優秀)「1,000万円当たった奴は優秀だ」(=早慶は優秀)「5,000円しか当たらなかった奴は人間として劣っている」(=Fランだからダメ)などと真顔で主張する人がいたら、誰もが正気を疑うはずです。高額当選者は、単に運が良かっただけに過ぎないからです。ところが世間では、この狂気じみたロジックをYouTubeで面白おかしく動画にし、エンタメとして垂れ流しています。そんな見世物小屋に、一体どのような価値があるのでしょうか。誤解しないでほしいのですが、私は学歴の持つ実用的な価値(社会における手形としての機能)まで否定しているわけではありません。問題なのは、学歴を「その人間の価値そのもの」として神格化する傲慢さです。自分の努力という一部だけを肥大化させ、それを支えた圧倒的な幸運(ガチャ)を脳内から消去し、結果だけを根拠に他人を値踏みする。それは、自分の成功がいかに多くの幸運の上に成り立っていたかを理解できていない、哀れな自己肥大に過ぎません。YouTubeで消費される浅薄な「学歴ランキング」。その数字の裏側にある、本人が選べなかった能力、環境、そして運(ガチャ)の存在すら自覚できず、大学名だけで人間の価値を測れると信じ込んでいる姿勢には、もはや失笑を禁じえません。