久しぶりに南北朝時代の話題です。

 

先日書店で見て購入してきました、『結城宗広・親朝』。

 

 

なんと6年も前のことだ。結城一族の居城を訪問していたのである。

 

 

 
 
結城宗広は北畠顕家と共に二度も京都に向けて遠征、足利尊氏を苦しめますが、足利の勢いを止めることは出来ず顕家は戦死し、宗広は老齢もあってまもなく世を去りました。
残ったのがその息子の親朝(ちかとも)。
 
南朝の主力で唯一生き残っていた北畠親房は、常陸の小田とともに北関東での南朝勢力結集に尽力。
しかし兵力で勝る足利側は小田の居城を包囲し、北畠・小田軍はもはや風前の灯火。
 

 

親房は最後の頼みの綱だった白河の結城親朝に幾度となく援軍を要請しました。

しかしこの時点で足利軍と対決するのは無理だと親朝は考えたのに違いない。もはや南軍の劣勢はどうにもならないほどまできていたのだから。

 

北畠が頼みとしていた北関東の諸勢力――小田・小山――は次々に脱落、幕府側に降伏していき、結城もついに北畠親房を見限ります。南朝としては北関東から東北にかけての広い地域で南軍を結集し、関東の足利勢と対決するはずだったのだが…

 

親朝が寝返ったことは楠木正儀ほどではないにしても叩かれがちなのですが、親朝とて無謀な戦いは出来なくなっていたし、そもそもすぐに見限るほど冷たい人間でもありませんでした。

再評価が望まれます。

 

ところで結城親朝の「親」、北畠親房と関係が?