2026/01/27
第一章15話「再筆の誓い ―震える指先と赤いインク―」
「……馬鹿な。その古びたペン一本で、
この完成された停滞(グレー)を書き換えるつもりか!」
課長の顔をした男の声が、
静謐な広間に冷たく響く。
男が手を振ると、宙に舞う無数の白い原稿用紙が、志乃の進む道を遮る壁となって立ち塞がった。
志乃は震える指先で、
安物のペンを強く握りしめた。
それは、会社で無難な書類を書くために使っていた、何の変哲もない事務用品だ。
けれど、このペンだけは、
彼女が現実で必死に生きてきた証でもあった。
「私は……、あなたの言う通り臆病だったかもしれない。誰も傷つかないグレーの世界は、
たしかに楽だった」
志乃は一歩、踏み出す。
目の前の白い壁に、ペンの先を突き立てた。
「でも、楽なだけの場所は、私の居場所じゃない! 血を流して、泥を這ってでも……私は、
私の心が本当に動く場所へ行きたい!」
ペンの先から、真っ赤なインクが溢れ出す。
それは志乃の情熱そのもののように、
白い原稿用紙を鮮やかに染め抜いていく。
バルガが志乃の決意に応えるように、
その巨大な身体で「妥協」の壁を粉砕した。
「お前の書く物語に、救いなどない!
誰も見向きもしないゴミだ!」
男の呪詛が響く中、
志乃は真っ直ぐに男を見据えた。
「救いなんて、人からもらうものじゃない。
私が、このペンで書き出すものよ!」
志乃が空中に最後の一行を刻む。
それは、物語を終わらせるための言葉ではなく、
この過酷な世界で「生き抜く」ための宣戦布告。
赤いインクの奔流が男を飲み込み、
偽りの平穏で固められた勇者の塔が、内側から激しく崩落し始めた。
瓦礫が舞う中、
志乃はバルガの温かな首元に顔を埋めた。
恐怖はない。
ただ、書き続けたいという渇望だけが、
彼女を突き動かしていた。


