幸福は寓話に良く語られる。
メーテルリンクの青い鳥、オスカーワイルドの幸福の王子など、様々に色と形を変え、内容は違えど永遠に語り継がれる不滅のテーマである。
しかし沢村は、ある作家の言う、《ほんたうのさいわひ》ということに拘る。
『ほんとうの…、』
呟いてみてハッとする。
目に見える幸いと、隠れて見えぬ幸い。身近なものと遠いもの、誰かの幸福は、何者かの犠牲の上に成り立つもの——
いや、横道に逸れてはならない。
今は…、目の前に座る、この女の幸福というものを第一に考えなくてはならない。
沢村は夫婦の現実について岩渕に語った。岩渕は牧師であり、仙台時代からの親友である。
牧師であるくせに、四角四面でない、牧師らしからぬ男の岩渕は、沢村とは最も馬が合い、どんな時でもお互いを必要とする、信頼と愛情とが入り混じった不思議な存在関係である。
『悪いが—— 』
妙なフィルターを抜きにして聞いてくれと、沢村は前置きしたが、これは笑って退けられた。
《ふざけるな。それこそ、おこがましいよ…》
電話の奥で、岩渕の太い息が漏れて、それを聞くと沢村は、もうそれで気持ちが軽くなるような不思議な実感を味わうことができた。
最初はどこから語ったら良いものかと、沢村は逡巡しながら語った。だが、この実情を語るうえで、沙知の現状を隠すのは無理があった。
度胸を据えたうえで—— もう、どうでもいいくらいの無茶が必要だった。他人に夫婦の最も深い心情、いや…、夫婦の現在を語るには、洗いざらいぶちまけるしか道がないように思えた。
岩渕は聞き手として最高だった。だが、一方で沢村は怖くもあるのだ。多くを飲み込みつつ憶測を交え、頼りない糸を解すように寄り添ってはくれるが、それが一々、傷みに触れてくる。岩渕の太い指で押し出され、穿り返されて、ついに沢村はえづくように戻してしまう。
《それで?》岩淵は先を急いだ。
《その計画とやらはだいぶ無理があるように思うけど…》
だが、無理は承知であり、そうでもしなければ沢村も沙知も救われないのだと思う。
『確かに。でも、今はそれしか思い浮かばないんだ…』
《お前らしくもない。しかし—— 》
『しかし…、何?』
《いや、そうでもないか。ある意味、お前らしくっていいよ》
笑いは長く続いた。
『お前らしくないって言っといて、今度はお前らしいっていうの?』
沢村は執務机の隅にある、針山を引き寄せた。扶助協会の誰かが忘れていった代物だが、暇な時、おもにくだらない電話を受ける際、太い縫針を抜き刺ししては気持ちを和らげる。
『ちゃかさないで、もう少し、真剣に聞いて欲しいな…』
《真剣に聞いてるよ。しかし、言っておくが…、今、俺は牧師じゃない。ただの友人として言ってるんだ。そうじゃないと、この突飛な話しについていけないからな…》
『突飛?』
《ああ。俺はずっとお前達夫婦を見てきたけど…、まずまず、巧くいってるんだと思い込んでた。離婚なんて思ってもみなかったし、ちょっと驚いてる》
沢村は黙っていた。
《それに、沙知さんと別れるのに時期を見て少しずつ…、とかいうのはちょっと、彼女にとって酷なんじゃないかと思うんだ。
視点を変えてみるとだよ?
お前が非常に煮え切らない—— なんだか、お前のほうが沙知さんに未練があるように思えてならないからさ…》
未練よりも愛情、の方が強いように思う。時に沙知を嫌で堪らなく感じながら、必要でならぬと思うこともしばしばであった。
岩渕の言い分は、現実的に、もう夫婦としては修正が効かぬのだから、離婚という着地を目指して事務的に、かつ冷静になって話し合うのが良かろう、とのことである。
《お前の言う、互いにわだかまりの無いように別れたいとか、時期は来年の春がいいんじゃないかとか…、なんだか煮え切らなくて話しにならない。沙知さんにはれっきとして…》
男の存在は明かしたが、それが誰だかは言っていなかった。沢村はこの後に及んでも、田中と沙知を護ろうとし、岩渕はそんな沢村に呆れ果てたに違いないが、敢えて言及は避けていた。詰め寄れば、沢村は益々、"そちら側"に加担して、自身の離婚から遠く離れてしまうに違いない。
奴隷気質、とまではいかないが、沢村にはなにごとにも容れ切ってしまうきらいがあった。それは中身が空っぽで—— それは自分自身が良く知っている。
《ま、それを聞いたところでどうにもならんし——》
事実、興味が無いようだ。瑣末に拘泥しない岩渕。彼は目の前の現実に向き合う強さが沢村よりも多い。
《今に始まったことじゃない…》
岩淵は電話の向こうで深い溜息を吐いた。
沙知は仙台時代、男性信者の一人に、しつこくつきまとわれたことがあった。
その男は沙知の働いていた職場の同僚で、沙知がクリスチャンだと知ると度々、礼拝に足を運ぶようになった。洗礼も受け、熱心に教義を学んだ——
それから信じ難いことだが、彼と沙知との間に噂が囁かれるようになった。沢村からすれば噴飯もののたぐいであったが—— 教会という狭い囲いのなかでは致命的であった。
当の本人、沙知はあの通り、緩いくらいのおっとりさであるから、『とっても良い人なの。仕事も丁寧に教えてくれるし…』こう言って、純粋な気持ちで彼を沢村に紹介した。だが、沢村に対する男の態度は敵意に満ちており、いま思い出しても笑えてくるのだった。
それから長いこと、沙知は教会の中で孤立した。クリスチャンとしての生活と奉仕のなかで、不実は敵である。姦淫は罪だし、健全でない者に居場所など与えられない。
そんな時も、沙知はなんの相談もしなかった。自分で解決しなければと思ったようである。それが悪かった。クリスチャンの妻らしくないふるまいと受け取られ、沢村も夫として難しい立場に追いやられた。
夫として、妻に信頼されていないのは信仰心が足りないのだと、心無い噂の的となった。
ぼんやりとしていて、つい、うっかりと物を言い、多くの誤解を招き、その誤解を解こうと必死になる言葉や行動が、誰かの感情を逆撫でしてしまう。
女性信者をすべて敵に回しても、その男を庇護し、捨てようとしない紗知の態度は沢村の目に潔く映った。ほかの男たちもおおむね、同情の目で紗知を迎えた。
《大丈夫?》
渦中、沢村は言葉少なに紗知に接した。
《なんにも後ろめたいことはないんだし、堂々としてたらいい》
《きみは優しいから——》
紗知は薄っすらとした微笑を浮かべ、静かに頷いた。
どう扱っていいものか…、正直、沢村にはわからなかった。
信じていたのもある。あの頃はまだ、二人は"まとも"であった。
聖女のようにも見え、悪女にも見える。紗知はあの当時、マグダラのマリアそのものであった。
(男の前では最も、女らしい女——)
沢村の、紗知の評価はこれである。この一語に尽きるといっていい。
だが、彼女のこういう部分、まるで人形のように清楚で従順な、どんなものにも染まってしまいそうな迂闊さに、男というものはいつだって欲情するのかもしれない。
『僕らには子供もないし…』
《いなくて良かった。いたら、お前はまた、全部飲み込むさ…》
沢村はこの手のタブーを言うのに、多少の躊躇いがあった。まるで、無味乾燥の夫婦生活を暴露するようなものだったから。
《…こう考えてみるか。離婚は自立の一歩だ。沙知さんの幸福を願うってお前の思いは、彼女の背を押したいって、そんな感情と同意なんじゃないか?》
『だいぶ、強引な気もするけどね。感謝は当然だし、沙知はこんな僕に良く尽くしてくれた…。牧師としても、夫としても…』
男、という言葉が抜け落ちていた。
《…あんまり、自分を責めないことだな。結婚は"ばくち"だよ。言い方が悪かった。籤引きとでも言っておこうか…》
籤引き。なんて言い草だ。
沢村は、この無作法な主、岩渕の存在を何よりも大切に思っている。
彼は沢村に対して嘘がない。元来持ち得た性質もあるだろうが…、良質な家庭で育った屈託の無い彼の性格が、歪んだ根を持つ沢村にとって友情以上の物を与えてくれる。
《しかたがないな。もう、愛情が無いんだから…》
『いや…、彼女に愛情がないわけじゃないんだ。あるにはある…』
それは本当に愛情なんだろうか?
一つ一つを取り出して、実際に眺めることができたらどんなにいいか。
『なんていうのかなぁ…』
これに関して、沢村はあまりにも言葉を知らなすぎた。週末毎に聖書の愛を伝え、それが至高であると説いているのに。
だが、愛情は徒労に最も近いのではないだろうか。
理由があるのだと考えることこそが間違いなのだ。自然に生じ、知らぬうちにどっぷり浸かるもの。
そもそも、沢村の好む愛は、生ぬるい、変化のないものではないのかもしれない。
沢村にとって沙知は、こうなる以前、沢村の特別であったのだ。
そうした相手を無碍にはしたくない。離れるのであれば、沢村自身も相当な負担を強いねば気が済まなかった。
『彼女は変わった。僕も変わった。それに気がついてしまったからにはもう…』
ただ、居心地が良かっただけなのだ。沢村の本音など、こんなものだった。
沙知の存在が沢村を和ませ、安心させ、それを愛だと勘違いしていただけなのだ。
今の居心地はどうかと聞かれたら—— 椅子の足の長さが、ほんの数センチ合わないだけで、こんなにも気味が悪く不具合を感じてしまうとは——
こんな喩えは尋常じゃないし、口が裂けても言えないが、シンプルに言うのなら、まさしくこれだ。
変化というなら、田中とのことがあって沙知は、以前の沙知とは違ってしまった。
生き生きとしてきたし、美しくも見える。沢村の与える愛よりも、田中の与える愛のほうが、沙知には適っているようだった。
沙知は露見を恐るどころか、沢村に私を打てばいい、叱ればいい、と泣いて叫んだけれども、あんな風に感情を剥き出しにされても、沢村の心は微動だにしなかった。
ぼんやりと、呆けた表情で、笑ってくれたほうが良かった。
だが、そんな女であったのに——
洋服ひとつ、まともに選ぶことが出来なかった女であったのに、沙知はだいぶ世間並みまで成長したのである。
人形から人間へ、それも悪くはないだろう。イブだって、楽園を出てからの方がよっぽどマシな女になったはずだ。
だが、沢村はどうだろう?
成長などあっただろうか。
いや、育つことなどもう要らない。もっと求めたいのだ。その『ほんたうのさいわひ』というやつを———
※
それから岩渕は、沢村に自分の兄を紹介した。彼は弁護士であり、『色んな意味で』役に立つのだと言った。
《それはそうと、例のクラスはどう?誰だっけ…、あの子、》
『淳哉?』
《そう、そう。気難しい子だって、言ってたけど?》
『気儘なんだ。今は…、来ていない』
岩渕は淳哉の話しをいつも面白がって聞いていた。何かを引き出そうとしても無駄である。あれ以来、淳哉は全く、姿を見せなくなっている。
《危ないなぁ…》
『危ない?…どうして?』
《いやね、そういう子が急におとなしくなると必ず何かがあったりして…、》
『おい、直感で物を言うのはやめてくれ。淳哉は繊細な子なんだ。それに頭の良い子だし、危ないだなんて…、物騒なことを言うな』
《はいはい…、冗談だろ?あいかわらずせっかちだな》
沢村は電話を片手に手帳を引き寄せた。午後の予定は——— 無いも同然だった。
岩渕との電話を切った後、壁の時計を見た。三時にはまだ間がある。
高校の終業時間は知らないが…、車を出せばじゅうぶん間に合うはずであった。
沢村は車のキーを掴み、車庫へと向かった。だが、車が無かった。
『聞いてない…』
車の所有は一台きりである。名義は沢村だが、沙知もたまには使用する。だからこそスペアキーを持たせてあった。
日常に、車が無いと不便なのは、仙台時代よりもこの地でのほうが顕著である。だが夫婦の取決めは…、車を使用する際には必ず、朝のうちに声を掛け合うことがルールであった。
《君が車を使ってる?》
分かりきったことを態々訊すのはどうかしている。無駄な文字を打ち終えて、高ぶる気持ちを抑える為にも、冷たいシャワーを浴びた。
今朝方、清掃ついでに伸び盛りの草を抜いた。除草剤を散布し、庭仕事を徹底した。
また汗をかくだろうと思いつつ、石鹸を泡立てながら、頭の中では淳哉のつまらなそうな顔が浮かんでは消えた。
(いったい、俺は何をしようというのか…)
やめるならば今だ。
午後、何の予定も無いのなら散歩でもすればいい。ついでに美味いコーヒーでも飲めばいいし、時間には早いが酒を飲みに出てもいい。
昼日中からワインを飲ませる雰囲気の良い店があり、そうした店が充実しているのも、地方にしては珍しかった。
確か、淳哉の通う学園付近に、洒落たブックカフェがあったはず———
沢村は浴室の曇った鏡の中に、いやらしい、小賢しい顔の男を見た。
別に、会いたいから会いたいでいいじゃないかと思う反面、様々な理由と嘘が列挙して浮かぶのだった。
偶然を装う為の、憎たらしいほど綿密な嘘。しかしその嘘は、沢村にとって久しぶりの刺激であり、劇薬だった。

