紛失したテキストが出てきたのは、数日後の午後である。
それは忽然と現れ、当然のように、誰かに読まれた形跡を残していた。
沢村は触れるのも嫌そうに、それを真上から覗き、一枚一枚を丁寧にひき千切って捨てた。
本当なら燃やしてしまいたかった。だが、よくよく冷静になってみれば、誰かに読まれたとて、そう困る代物でも何でもなかった。
ただの文字の堆積に過ぎない。そして、これが無かったからといい、講義が滞ったわけでもなく、誰もがいつも通りの時間と空間とを分かち合ったに過ぎず…、責任すら生じなかった。
ただ、淳哉がそこに居らず、あの瞬間、淳哉に手渡すことが出来なかった理不尽を除けば、の話しだが。
『沙知』
沢村は、そこに居ない妻の名前を呼びながら、塵箱を手に取り、二階へと上がった。
『沙知…』
寝室の扉をノックしても反応は無い。そうだ。そのはずで…、沙知はこの頃、職探しに奔走していたのであった。
夫婦の寝室は日当たりの良い、東側にあるのだが、狭過ぎるのが難である。
化粧台には、やりかけのような瓶の蓋やら、小さな香水や、栗鼠毛の刷毛、ポーチから頭を出した口紅が目に入った。
沢村は塵箱の紙片を洗いざらい、そこにぶちまけた。
かなりの量であった。
ついでに窓を開け、初夏の風に嬲られ、躍り狂う吹雪のような光景に見惚れた。
沢村はベッドに横になり、一枚一枚が静かに、床へと誘われるのを見届けた。
※
淳哉との約束の日は明日の午後——
沢村は仕事を終えると、茶菓を購めに街へ出た。
沢村は甘党だ。酒も嗜むがこってりしたクリーム菓子が好物である。
良質な菓子店を見つけることは意外にも困難だ。地方では特に、とも言えるだろう。大概は取り寄せで済ませるが、急場にみつくろうにはデパートが便利である。
週日の午後、百貨店の地下街は閑散としており、つい、余計なものまで買ってしまう。
買い手が暇なら売り手もそうなのだろう。互いに余裕があったらしい。
声をかけられて、いつもなら素通りで済ませるはずなのに、足を留めたのがいけなかった。
沢村は、紙袋から覗く巨大な羅臼昆布の頭を恨めしげに眺めた。
出汁を取ったら美味そうだ。しかし、正月でもないのに、これを買った意味が分からない。
夏は目前で、煮込みの料理はほぼしないし、毎日の味噌汁には贅沢である。
数センチにカットして、甘辛く煮付けたらどうだろう。
昔、地元の料理屋の奥で出されたあの味——
沢村は、母のお使いに走った幼い日を追想し、下町情緒たっぷりの、活気のある調理場の様子を頭に描いた。
置屋を営んでいた沢村の母は、姉芸者の営む料理屋にしょっちゅう出入りしていた。馴染みのお客があれば呼ばれ、その際には数人の妓を連れてもてなした。
その御用聞きに沢村も度々駆り出され、裏口ではちょっとした顔であった。
夏の盛りに訪えば、かき氷が出てきたり、寒い日には串に刺した蒟蒻が振る舞われ…、水天宮の祭りも何故か懐かしくてたまらない。
お祭りの際、芸者の母は浴衣と決まっていたが、その柄がなんとも奇抜であった。聞いた話しによれば、それは歌舞伎の悪婆が着るという、肩から衿にかけて大きな網目模様の入った紺色の幾何学、サンゴ、波を表した青海波(せいかいは)が入乱れ、それはまさにカオスそのもの…、だが、それが妙に似合うから不思議である。
夜店のカンテラの下で、母は贔屓の客と出会すこともあったりして、子連れであることを忘れることが儘あった。
大人達のお喋りは途方もなく続いた。沢村は着慣れぬ浴衣に辟易とし、肩上げを忌々しく思った。もし友達に見られたら嫌だな、と感じたのを鮮明に覚えている。
祭りの中盤、お囃子の笛が軽々と鳴り響き、狐の踊りが始まった。
喧騒はしだいに薄まり、ごった返す人の群れはいつのまにか円を作り、その中央で無言の野次と高貴を綯交ぜにしたように、狐とひょっとこは絡むように踊り狂う。
狐は不意に沢村を見、ヒタと手首を曲げて見栄を切った。
『あんたを見てるよ』
母は沢村の肩を抱き、耳もとで囁いた。沢村もそうだろうと頷いた。しかし、魅入ったら最後、全てを見透かされ、暴かれるようで恐ろしい、そんな気がしてならなかった。
男達の踊りが荒ぶるほど、浴衣の裾が深く割れ、覗いた脛が沢村の目を射った。
沢村は興奮し、身慄いが生じた。
後退り、逃げ出したくなった。
母に知られたらまずいとも思った。
もう、お祭りには行かない。
幼い沢村は固く誓ったはずだのに、この後、幾度も祭りを楽しんだ。
いや、楽しんだだけではなかった。あの日以降、沢村は秘密を持った。幼いながらも羞恥と呵責とを痛感し、何かに追われ、負わされることにあきらめすら感じた、最初であったのだと思う。
(いずれにしても…)
沢村は考えた。今更、その流れは止められず、ただ身を委ねるしかないのだと。
この世が虚仮ならば、虚仮の人、自分はただの人であり、何者でもない。
牧師としては失格で、人としても、曖昧である。
沢村は過去の親しみのある光景ばかりをなぞり、感情の昂りを抑えようと努めた。
帰りしな、ぶらぶらと近所を散歩して、古書屋に立ち寄り本を漁った。
一冊を引き抜いて、それを手に取った。
『いらっしゃい』
普段は上目に見るだけで口を利かない店主がニッコリと笑いかけてくる。
『お珍しいですね…』
『ええ。ちょっとね…』
『買い物?』
『ええ』
沢村は紙袋を胸まで持ち上げた。
『なんだ…、』主人は笑った。
『おかしいでしょう?』
沢村も釣り込まれて微笑した。
『いつもよりご機嫌だ…』店主は人の良さそうな目で沢村を見た。
『そうですか?』
『ええ。いつもはちょっとね。話しかけづらく思ってました』
『僕、この先の——』
沢村は名刺を取り出し、店主に渡した。
『それとこれ…』沢村は手に掴んだ本をレジに置いた。
『ほう…、アドルノ』
店主は沢村の顔をまじまじと見た。
沢村は数日前、古書屋のサイトでアドルノのミニマモラリアを検索し、新品よりも高値であることに驚いた。
こうした本は近年、手に入り難くなっている。出版元に問い合わせてみたところで在庫切れがオチだろう。
すぐにも読みたいのだから高額であっても古書で買うのがいい。
沢村はだいぶ迷った。
だが、偶然にもここにあったのだ。
嬉しさは格別である。
店主は沢村をじっと見て、『本当に牧師?』こんなことを言う。
『本当かどうか…』
分かったものではない。沢村は苦笑するしかなかった。
※
沢村が大荷物を抱えて、教会の鍵を開けようとした時だった。中庭で声が聞こえる。
『あら』
沙知と淳哉が同時に振り向いた。
『約束の日は明日じゃなかったかな…』
淳哉の書き殴ったメモには、水曜日の午後—— 確かにそう書いてあったはずだ。
『それ、どうしたの?』
淳哉は沢村の問いには答えず、沢村の荷物を指差した。
『ああ…、買い物。あと…』
沢村は荷物を整理する為に玄関へと廻った。すると沙知が素早く沢村の後を追った。
『淳哉くん、今日、どうしても来たかったんですって…』
『そう?』
『あと…、』沙知は口篭った。
『書類、君が弄った?』
沢村はキッチンの棚を混ぜながら言った。
『いいえ』
沙知は目を見ひらいて首を振った。
『実はね、紛失したんだ。無くなっていた、と言ったほうが正しいかもしれない。僕はね—— 』
君を疑っている、君がわざとしたんだと、沢村は言おうとした。
『私は知らない…、書類なんか』
『そう…』
沢村はため息を吐いて、紙袋を畳んだ。
『鍵をかけておいたけど?』
『かかっていなかったの…』
『君ね——』
沢村の感情が狂い、沙知を見据えた。
沙知は沢村の背に寄り添った。
沢村は身を引いた。咄嗟に出たこわばりだった。
『…危ないよ』
沢村には逃げ場が無かった。辺りを見渡し、淳哉に見られやしないかと、沙知の肩を押した。
棚の奥から古い小麦粉の袋が出てきた。縁の欠けた皿やコップ、前任者の忘れ物と切り捨ててしまえばいいものを、沙知は沢村の目に触れぬよう、奥へ奥へとしまい込んでいる。これも、あれも…、全部捨てなければならない。沢村は一つを掴んで流しに置いた。今やらなくてもいい、しかし、やらずに見過ごす勇気も無いのだった。
沙知との無言に耐えきれぬ沢村は、これらの徒労を安堵へとすり替えるべく、努めて冷静に、義務的に処理した。そうした行為を相手がどう見るか…、嫌味と取るか、意地悪だと受け取るか、もしくは諦めるか…、考えるゆとりも無かった。
