私は昭和末の冬に産まれた。

 

男尊女卑がいまだに根強く古くからの村のしきたりも脈々と受け継がれている地域。

季節ごとの行事や七五三などは家々を回り、お心付けを集め最後は集会場で宴会をする。私の生家はその総まとめ役だった。

 

母は入退院を繰り返す両親の借金返済と弟の養育に首が回らず、縁戚である8歳も年上の父との縁談がまとめられる。

 

当時、母には交際相手がいて子供も身ごもっていたにも関わらず、借金返済のための強制的な結婚だった。

 

母は子供を堕胎し父と結婚。都会で育った奔放な母は、しきたりで一切の自由がない農家での生活が合わず、義両親から度重なる躾と称した嫌がらせを受けながらも、跡取りを産めば環境は変わると信じて、やがて待ち望んだ妊娠をする。

 

妊娠中も甘えは許さないと農家の仕事や家事を休むことは許されず、元々母は心臓病を患っていたこともあり、お腹の中で成長していく子供に対する愛情よりも、どちらかと言うと「早く私を楽にして」と思って過ごしていたのだと思う。

まだ性別も分からないのに男で生まれて来ると誰もが信じて疑わなかった長男の嫁の懐妊、それが産み月になりいざ産まれて見たら女の子。

誰もが落胆し義両親は、ただでさえ役立たずな嫁が更に使えない嫁になったと怒り狂った。

 

「そんな子供、捨てて来なさい!!」

 

祖母は真冬の雪も積もる神社の境内に、産まれたばかりの私を捨てて来るように吐き捨てた。

 

「もし生き残っていたら家の敷居をまたがせてやるよ!!」

 

祖母はそう吐き捨て病室を出て行った。

母も産まれた子供が女児で落胆していたところに、更に追い打ちをかけるかのように怒鳴り散らされ、夫にまで

「女の子の名前なんて考えてないぞ」と新聞を見ながら言われ、たまたま載っていた事故死の子供の名前を見て

「これでいいな、漢字を変えれば」と面倒そうに告げ病室を後にし、母はぷつっと紐が切れるように精神崩壊をしてしまった。

母は入院中、誰も見舞いに来なくなった病室で退院までを過ごし退院後、私を神社に置き去りにした。

 

私はどうやって生き残ったかは分からない。

 

ただ生き残り家に迎え入れられても、私も母も使用人のような扱いを受け、後に父の弟のお嫁さんが待望の男の子を産んだことで更に私達親子の扱いは酷くなり、母の精神病も悪くなる一方で強制的に精神病院に隔離されることもあった。

 

狭い地域、しかも地域のまとめ役と言う立場にある家で、長男の嫁が跡継ぎを産まず次男が跡継ぎを産んだこと、それも母が精神病を患ったことで外聞を気にしたのだと思う。

追い出されたのかどうかは分からないけれど、私達親子は、父の生家から離れた所にある母の実家近くに転居することになった。

 

母はよほど嬉しかったのか、父が購入してくれた一軒家を、自分の両親にも見せて私の誕生日には家で誕生日会を開いたり、地域や保育園の保護者会にも積極的に参加して精神的にも落ち着いているように見えた。

 

ただ、父は私達とは同居することなく、母に家を与えて自分は県外で一人暮らしをしていた。

年に数回、片手で数えれるくらいの帰宅はしていたらしいけれど、幼かった私に父の記憶はどうか言われたら、その時にいた人がそうだったのねと言うぐらいの記憶しかない。