織田裕二主演
「奇跡の教室」
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元僧侶の織田裕二がひょんなことから、カリスマ講師を目指すというドラマ。
出来がどうとかはさておきw
最後まで観てそして予備校って行ったことないけどこういうドラマ観ると気付かされること多い。
主人公、織田裕二が数学のカリスマ講師竹中直人に分かりやすくて楽しい講義だったと告げる。すると竹中は「それは俺が数学を愛してるからだ!」と言いきった。
なるほど愛するとは数学に関わらず「執着」することかもしれない。
愛は定義付け出来ないけど、絶えることない情熱を傾け続けることなのかと。
ここが単に「好き」ということと「愛する」ということの違いかもしれない。
深い。
すぐには言葉に出来ない哲学だ。
(「大渡海」初め辞書に敬意だわ
![ムンクの叫び](https://emoji.ameba.jp/img/user/ny/nyuu-nyuu/1500.gif)
さて、少し話を変えます。
主人公は現代文の講師。
開き直った彼は生徒達の前で
「現代文はこのチョークのようである。この塊としてのチョーク。そして砕いて粉にしたものもまたチョーク。どちらもチョークであり、このようなことを仏教では『空』と呼ぶ。」
(『空』についてはまたあらためます。)
あ、そうだったんだ。
仏教思想だったのか。
自分が教職に進まなかった言い訳(←ここ大事w)の一つはまさにこの部分。
「出題者は仏様。自分が仏様になって(真理を)求める。」
そしてこの部分が引っ掛かって、やっぱり無理だった。
もちろん基本的考えでそうは教えたけど、自分自身納得いかないし、そんな軸がブレていては授業にならない。何より現代文は思想にまで 関わる教科。
Aと感じる者がいればBと考える者もいる。
果たして一方だけを正解。もう一方を不正解と出来るだろうか。
ただこういう考えではお分かりのように授業にならない。教師失格。テクニカルな話は出来るけど、大事な時期の生徒達に押し付け(とばかりは言えないけど)ることは憚られる。
これは自分の中では不文律。
善と悪は絶対なのだろうか。
渾然一体。
いつも疑問の中にある。
こんな人間が教師になってはいけない。
何より現代教育においては。
自分自身、宗教書や哲学書を読んで勉強しなければならない。
もっともっと内省して神の死に到るまで思いを深めねば。
何か重くなったぞw
最後にもう一つ。
「皆さんは欲がない。悟っているのではなく、諦めているんだ。」
受験で緊張するという生徒に
「あなたはその大学に受かることを夢にしてる。それ以上の大学に合格しようという欲を持ちなさい。そうすればあなたのいう大学はただの滑り止めでしかなくなる。」
「『欲』を仏教は否定していますが……」ということには宗派によるだろ!と突っ込み入れたかったがw
欲するものに愛を注ぎ続けることが人としてある意味正しい姿かもしれない。