理不尽さと諦め。 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

何の準備も無しに、砂漠やジャングルに放り出されることは、「自由」ではなく「漂流」「遭難」「迷走」。

誰もがそんなことは理解しているはずです。

でも、「自由」という魔法の言葉を掲げれば、いつまでも終わらない戦いが続いてしまうのでは?と思ってしまいます。
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相手側の理不尽さ及び、横暴さに決められた方が諦めやすいこともあるということです。

いくら努力を重ねても、全員がイチローのようになれません。
金メダルを獲得出来るのはたった一人、たった1チームです。
諦めない気持ちを大切にする教育は立派です。
夢を持ちなさいという教育も素晴らしいです。

しかし…悪質なクレーマー、独り善がりなストーカー犯罪、方向性が不明瞭な市民運動家…。

なんだか共通点がある気がします。

「私の感情が世界基準」

と思えてなりません。
言ってしまえば「一個人の肚のムシ」を治める為に国家や大企業が重い腰を動かすのか?
ってことです。

昔は家長である父親の横暴?により、決められた職業に就かされ、決められた相手と結婚させられていました。
理不尽で不自由さを感じて当然でしょう。
しかし、それは父親という権力者の責任に守られていたということです。
例えば、家業を継ぐということは、指導監督の負担もあるし、見習い期間でも寝食は保証されてました。
決められた結婚をすることは、夫婦間の個別の事情はあるにせよ、あからさまに怪しい相手を掴まされることもなく、また配偶者に問題が浮き彫りとなれば、相手側の親に言ったり、自分の親を堂々と頼ればいいのです。
しかし、親の知らぬ所で出会い、親の知らぬ所で悩み、苦しみ、悲しんだとしても…「自分が選んだ結果」となってしまいます。

それで互いに別離を決断出来れば、まだ前を向けますが、いつまでも、いつまでも互いに改善の可能性を模索し続ければ…終わらない戦いがいつまでも続くかと思うんです。

訴訟合戦とか、第三者委員会だとか、真相の究明だとか…。

「自由」に生まれて、自由に生きてきて、何故、「誰かに決めてもらった一律の価値観」に縛られるのでしょうか?自由な価値観、自分だけの価値観を見出だせば良いだけではありませんか?

「絶対」ってなんだ?
東大合格して、ノーベル賞取るまで褒めてくれない社会?甲子園で優勝して金メダル取るまで許してくれない親?

きっと…日本史上の絶対君主は将軍でも天皇でも総理大臣なく「自然災害」だ