その男、治部少輔三成 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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豊臣政権家の朝鮮出兵における戦犯は主に

宗義智
小西行長
石田三成

の三人が挙げられると言われています。

宗義智は対馬の領主であり、当時の通商や外交は宗氏が窓口となり、やり取りしていました。

つまり宗氏は朝鮮、明との貿易の権利を独占していたのです。
しかし、朝鮮出兵によって半島に日本の領土が出来てしまえば、自分達の旨味がなくなる…と、考えた宗氏は秀吉に虚偽の情報を伝え続けたのでした。

当時の朝鮮の正規国軍は脆弱でした。
虎退治で有名な加藤清正の活躍もあり善戦しました。
しかし、日本は侍大将同士の戦略が一致せず、更に朝鮮の民兵や義勇軍に悩まされます。
その間に圧倒的兵力を誇る明の援軍が到着してしまいます。
そして補給路を断たれてニッチも行かなくなった時、豊臣側の大使として小西行長が明の大使と講話交渉します。
しかし、これは物別れになります。
秀吉が当時の明を中心とする外交儀礼(中華思想?)に通じてなかったことや、秀吉の強硬な意向を伝えざるを得なかったと言われています。
更に小西行長は娘婿の宗義智の守らざるを得ない立場でもありました。

はい、出鱈目な宗氏の情報に混乱した加藤清正達、それでも強硬な秀吉の意向を伝えなければならない小西行長。
彼は板挟みになっただけとも言えませんが、前線の武将が恨みの矛先を向ける気持ちも解ります。

そして秀吉の死により朝鮮出兵は莫大な戦費がかかっただけの失策だったのですが…。

石田三成は、戦地から引き上げてきた武将達の領地から、例年と同じ年貢を請求したのです!

う~ん、杓子定規と言われたらそれまでですが、こうゆう所が三成の三成らしい所でしょうか?

で、表題の治部少輔ですが、三成の役職です。(じぶしょうゆう)と読みます。

治部省とは今の日本にありませんが、住民の戸籍の管理や外交の担ったと言われています。
しかし、平安、鎌倉、室町と天下泰平な日本の外交とはあくまで「日本列島の国内勢力」なのです。
実は秀吉政権下の財政担当は長束正家であり、三成ではありません。
しかし、「戸籍の管理」とは農地の管理に繋がり、「お金」「通商」よりも「年貢」「石高」の方が重視された時代ですから三成の実権は想像に容易いでしょう。

となると…三成が「財務大臣」でも「外務大臣」ではなく「農水大臣兼、地方自治体の知事達との政府側の窓口」と想定してから、現代日本の状況と考えれば面白いです。(続く)