日本の「官僚組織」を表現するのに、
「関ヶ原の戦い」ほど最適な事例はないかと思います。
「え?関ヶ原って、徳川家康が勝利して江戸幕府を開いたんでしょ?官僚関係ないじゃん。」
と思うのも当然でしょう。
しかし、大切なのは、その戦のきっかけとなった中心人物
「石田三成(いしだみつなり)」
という戦国時代の稀代の官僚なくして語れません。
何故、関ヶ原の合戦は起きたのか?
教科書通りの回答なら
「秀吉の死後、家康が実権を握り、過去の豊臣政権の約束を破ったことに腹を立てたから」
となるでしょう。
しかし、それでは西軍(豊臣側)の主張は通っても、東軍(徳川)に迎え討つ理由がありません。
大戦の大義名分は「西方の上杉景勝と石田三成の挙兵」です。
上杉家は家康の神経作戦をガン無視するか、のらりくらり避ければ良かったものの、そこは「義」を重んじる上杉家。
徳川のいわゆる「言いがかり」に対して「是非に及ばず」と書状を返したから、東軍に西軍を討つ口実を与えてしまいました。
この戦国の時代に、潔癖すぎる文ゆえに後世有名となった手紙こそが直江兼続が書いた「直江状」であります。
そもそも家康の言いがかりは酷いものでした。
かつては越後を統治していた上杉家は、豊臣政権家では会津を治めてました。
そして越後は堀秀治という大名が統治していました。
しかしまぁ、この堀氏が稀代のボンクラ大名でございますて(笑)。
豊かな越後の土地をいいことに放蕩三昧。更に重い年貢を民に課したから、越後の住民はブチ切れました。
何もクワや鎌で暴動を起こしたわけではありません。
隣国の景勝の居る会津に集団で移住したのです。今でいう亡命ですね。
越後の民はただの農民ではありませんでした。
「私達の主君は謙信公のみ」と、前主君の上杉景勝の先代、上杉謙信にのみ忠誠を誓うとの理由で、越後の土地と、暴君堀秀治を見捨てたのです。
上杉景勝は快く越後の民を会津に受け入れましたが、これが「挙兵」の疑いをかけられ、前述の直江状における「是非に及ばず」→(来るならこいの意)と帰結してしまうのです。
以上が徳川家康が西方を攻める理由ですが、徳川に協力した東軍の大名達はあくまで家康と対等で家来ではありません。
加藤清正、福島正則、細川忠興、黒田長政などの武断派の武将達は、三成に恨みがありました。それは、
「朝鮮出兵時も普段通りの年貢を三成は取り立てから」です。続く