盲信イコール宗教と嫌悪される方達への処方箋 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

面倒なタイトルにしてみましたが、結論から言えば

「十分に理性を費やした上で、それを越えた信仰心」

と、いうことです。

宗教といえば、伝道師や教祖のわけの解らない話を理解もしてないのに、ありがたいと思い込んで、四六時中、頭を地面にこすりつける…って思い込んでませんか?

では貴方は、ローマ教皇やマザーテレサから

「盲目的な教義の押し付け」

を感じ取ったことはありますか?

テレビに出る真言宗や浄土真宗のお坊さんのお話は、宗派に関係なく為になると思いませんか?

そうです、彼らはとても

「理性的」なのです。
何よりも彼ら自身が
「盲信していない」
を体現しています。
それを踏まえてキルケゴール全集9巻から
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信仰深いキリスト者は理性を持っており、またそれを用いてもいる。
そして普遍的・人間的なものに敬意を持ち、ある人がキリスト者にならない場合にも、それを理性の欠陥だとして説明したりはしない。
寧ろキリスト教との関わりにおいては、彼は理性に逆らって信じ、理性に逆らって信じることに「気をつける為に」理性を用いるのである。

従って彼は、恐らく誰かが心配する様に、理性に逆らって、ナンセンスなことを信じることは出来ないのである。
何故なら、理性はまさに、それがナンセンスであることを見抜き、彼がそれを信じることを妨げるであろうから。
だが彼が理性を用いるのは、理性によって理解を絶したものに注意が向けられるかぎりにおいてであり、そのうえで彼は、理性に逆らって信仰的にそれに関わるのである。
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はい、哲学書特有の難解な言い回しにお付き合いくださりありがとうございました。それでもキルケゴールはまだ簡単な方ですよ(笑)。

つまりは、頭で考える前提で判断し、それでもその理解を超越したもの対して初めて信仰的に関わる。
ってことです。信仰と言えばまだカルト宗教臭いかもしれないから「愛」とか「情熱」なら解りますよね?
好きな人に「愛」を説明出来るはずありませんが、「生活基盤」を軸に詐欺に合わない生活をしますよね?
つまり愛を説明出来ないと理解してる者ほど、バランスの良い愛し方を理解している。ってことで、理解を得られない情熱を何をどのように燃やすかは、他人に迷惑をかけない者ほど情熱的ってことです。

寧ろ、「愛」を完全に理解した気になって言葉で説明を「可能だ」と思った時点でそれは愛ではないでしょうね。
(続く)