1848年5月または6月の日記 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

翻訳本に5の後ろに括弧書きで6とあったので、正確な月日は特定出来なかったのでしょう。

デンマークの哲学者、セーレン・オービエ・キルケゴールの日記からの引用です。
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「魂の不死性と、神は実在するということの、最良の証明は、じつは人がそういことについて子供時代に受けた印象である。
すなわち、あのたくさんの学識にあふれた大がかりな証明とは違って、次のように言い表すことができるようなものである


『それはまったく確かなことだ、なぜと言って父が私にそう言ってくれたのだから』 」

(キルケゴール全集9巻289ページより)
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はい、もしよろしければ、先の2015年8月2日の記事もお読みくださいませ。

キルケゴールはソクラテスさえ到達出来なかった、思想、宗教、哲学、倫理等の限界という名の絶壁に遭遇したのかもしれません。
それは

「幼い時にそう言われたから」

です。
はい、勿論、親を客観的に見る(観る)ことは大人として、社会人として、凄く大切なことです。
いつまでも盲目的に親の言いなりならば、一流企業に就職しようが、金メダルを獲ろうが人生の半分も謳歌してないでしょう。
そうなことではないのです。
キルケゴールが、いや、キルケゴールの言葉を借りて私が言いたいのは、

「どんなに思索の域を広げようと掘り下げようと、自分の信仰の原点や出発点はあの9階のベランダから見下ろす風景ということは変わらないじゃないか」

ということです。

あの有名な発明家も凶悪な犯罪者も、みんな昔子供だってね

そう、結局は生まれさせられた中で、その環境も、自分の親も、自分に付けられた名前さえも選んだわけではないということで、どんな賢者でさえも、己のスタートライン、ゼロの地点からマイナスの領域には踏み込めず、結局は日本人として、デンマーク人として、男の子として、末っ子としての視点の外側には行けないという当たり前の話なんです。

「物心ついた時には~」

と言いますが、それを未来に昇華出来ても、それより前は変わらない。
だから神や魂やあの世を信じる、という当たり前の話でした。
一周回って当たり前でした。
(おまけ)
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「過去振り返って一つだけ言えるたぁ、『あの時俺は若かった』ってことだけでぇ。」