「哲学することは、ギリシアにおいては一つの行為であって、それゆえ哲学する者は実存をかけて生きる者であった。」
by キルケゴール
はい、古代ギリシアの市民達は哲学のみならず、数学や天文学を自分自身の全身全霊をぶつけて学びました。
それはあくまで「私の学問」であったのです。
与えられた者を補充することや精度高く踏襲することよりも「自分が生み出すこと」に捧げました。
それは自身が提唱する者を反証する者も哲学者であり数学者だったからです。
盲目的に賢人の成果を記憶するのが重要ではありません。
現代社会のような「一生涯生徒」のような図式ではありませんでした。
そこに思惟と存在の差異はありませんでした。
思惟と存在の差異は
「万人に当てはまるか?」
が尺度となり、アリストテレスまでのギリシア哲学は
「形而上学」と分類されるのが一般となり、哲学に詳しくない人は
哲学=形而上学と思い、
「人間とは○○だ。」
「愛とは△△だ。」
って、より多くの人間の頭に響く言葉を生み出すのが哲学だと思ってる人が多いかと思います。
しかし、それは哲学の一部であり全部ではない。
紡ぎだされた名言、至言、箴言は、
「言った人間の人生が一番ほど遠い」
と言うのよくあることです。
また、絶対的な言葉の定義が個の実存と解離する最大の理由は、個人差の事情ばかりではなく、
「実存する個人は常に変化している」
ということだからです。
「流れる川は常に新しい水を運ぶから、決して同じ川を見ることがない」
「魚は海を認識しない」
という言葉の通りです。
絶対的な定義による言葉を「投げ掛けるや否や」、その言葉は「今現在の自分」から遠く離れるのです。
それは賞やメダルを取った人物の過去、現在、未来を想像すれば容易いでしょう。
メダリストが語れるのはあくまで
「私が獲得したメダル」
であり、「次のメダル」や「誰かのメダル」が該当するはずもないのです。
また膨大な資料から過去の傾向から総論を述べることが間違いとは言いません。
全く調べない人が全てをわかった様に語る人より整合性はあるでしょう。
しかし、そんな分析や総論で全体に該当する傾向を述べたとしても、
「述べた本人とメダル」
とは全く別なのです。
優秀な男性産婦人科医は出産にまつわるあらゆることを熟知しているが、本人に出産の経験はないのである。
by SPA-k