一神教が崇拝する「神」は決して神道、仏教、ギリシャ神話の様な「人間型の神々」ではありません。
ましてや

こういうのや、

こういうのではありません(笑)。
貴方に取ってだけ都合のよい
「無尽蔵な奇跡」
を起こすのが神と思っている限り、貴方は真の信仰を知る日はこないでしょう。
絶対神に人格はありません。
一々、貴方の前に人間の姿で降りてきて「ああしろ」「こうしろ」とは言いません。
絶対神とは「天地万物の法則」「流転する理(ことわり)そのもの」です。
「神なんか居ない!」
という人間は、自分が生まれた必然性も、家族や友人との出会いと別れを滞りなく説明出来るのでしょうか?
敬虔なるクリスチャンでさえ、「縁」「偶然」を完璧に説明出来る者は居ません。
それは人智の及ばぬ範囲を等身大の人間として認識しているからです。
斜に構えた人間は、
「何故、貴方は生まれたのか?」
と、問えば自嘲気味に
「俺の親が○○○したから~」
などと語りそうですが(笑)、
「何故、貴方が選ばれたか?」
に満足ゆく答えを「神の御手」を思惟せずに答えられないはずです。
そうです、仮に否定という思惟の中に神を見いだしたとしても、それ抜きに貴方は日常を送れない限り、「神は居る」になります。
繰り返し私は自分のブログで訴え続けていますが
「無宗教と無信仰は違う」
ということです。
形式ばったルールに従って頭を擦り付ける礼拝をしたら神様を信じてる、なんてのはただのエゴであり思い上がりです。
「俺は何も信仰していない」
という人間は、生まれてから誰の世話にもならずに生きてきた、ってことになります。
また、敬虔なる信仰者(対立する教義を含む)の御手に護られて貴方が育ったことをどのようにお考えか?
分別ある人間ならば倫理道徳の中にルネッサンス(人間中心主義)を求めるでしょうが、真に分別ある人間は、
「提唱する倫理道徳は素晴らしくとも、それを完璧に再現出来ないのが人間の限界」
というのを知っているはずです。
スパルタ式の鬼コーチの根性論は、言葉に間違いないでしょうが、実践し切れないのが人間の限界。
だから神と信仰はその上にある