「自分が真理を追い求める途上で実に多くの障害に妨げられていることを嘆いて、嘆息してみせたりもする。もしこの嘆息が神にむかって投げ掛けられたものであるなら、それはなんと神を侮辱する行為であることか。あるいはもしこの嘆息が伝統や慣習の手前いちおう発っせられたものであるなら、これまたなんと神を侮辱する行為であることか。低次のものを後生大事に掴んでおいて高次のものを追い求められないなどと嘆くことは、なんという撞着であるか。むしろまず嘆くをやめ、固く握りしめた低次のものをいざきよく手放すべし!である。」
キルケゴール著「哲学的断片」より
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比較対象の為に神は居るのではありません。
勿論、それも一つの要素ではあるでしょうが、変わらない現状には「しがみつき」が諸悪の根源となっている場合が多いでしょう。
何を変えるか?
何を変えないか?
それがどちらに該当するか?
これはやはり積み重ね、ルーティンワークしかありません。
叱責され続け、全てを否定された者は、遅いながらも着実な一歩さえも自己否定し、またゼロからやり直そうとするから叱責される。
何が出来て、何が出来なかったかを示してあげないのは、親、兄姉、上司、教師、神父、牧師の責任にほかならない。
「誉めて育てる」
は甘やかすとかウヤムヤにするではない。
着実な一歩の前進を認めてあげることである。
だからこそ指導者及び伝導者は「低次のしがみつき」を決して己の基準、価値観で押し付けてはいけないのだ。
「同じ事を繰り返して
違う結果を望む。
それを狂気という。」
この言葉の意味を考えれば容易にわかるでしょう。
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哲学者キルケゴールではなく、日常生活を営む、キルケゴールは友人、知人に対して
「お互い人間同士でいようじゃないか!」
が口癖だったとありました。
これは誹謗中傷しないって意味ばかりではなく、過度の神格化をしないでおこう、と身近な者と誓いを立てあったと言われます。
一神教の効能は、英雄の神格化に警鐘を鳴らす、というのがあります。
過度の偶像崇拝で軍人や音楽家、運動家、医師、政治家を神と同一視する危険において、一神教の教義は効果的でしょう。
しかし、その源泉は、理想の自分が現在の自分を傷つけていることを認識しましょう。