今日この日だからこそ、真摯な気持ちで書きたいですが、これを読んでも私が「絶対」とか「白黒」を決めたがる者だと思いたいならば、その方は哲学やネットに向いてないというより、社会生活に向いてないのでしょう。
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「命」について語る時、それは全て生きている側の意見なのです。
過去に生きていた聖人や祖父母の言葉を引用しても、それを語ってる人も、聞いてる人も「生きている」のです。
数年前にとある学生が問いかけた
「どうして人を殺したらいけないんですか?」
の問いに、大人達は明確な答えを提示出来なかった、って事もありましたね。
「貴方が殺されない為に」
とか、
「駄目なモノは駄目、という絶対は必要」
と、識者は回答しましたが、私の答えは
「それを質問している貴方も、今現在生きているから。
亡くなられた者の意見を聞くことは出来ない。
だから命は尊いのです。」
ってのが私の精一杯の回答です。
勿論、これも暫定的な答えです。
時の流れできっと変化するでしょう。
大人達を命の軽視を揶揄する時に
「今の子はテレビゲームの様にやり直しが効くと思って人の命を…。」
なんて言うが、
「ゲームはやり直しが効く」
なんて思っている人はゲームを知らない人間でしょう。
寧ろ、自ら能動的に選択するゲームの方が、ただ受動的に観てるだけのテレビよりも有益だと考えます。
選択してコマンドを憶えて、セーブポイントまでセーブ出来ない恐怖と戦うことと、つまらなければチャンネルを変えられるテレビとは大きく違うでしょう。
私が好きな映画の中に登場する神父が
「私には主が何故、幼いトーマスをお選びになったのか、わかるはずもありません。
ただ言えるのは、主は愛する者ほど傍に置きたがるのです。
これからは苦しみも悲しみもない、トーマスの永遠の幸せを祈りましょう。」
ってセリフがありました。
私はキリスト教徒ではありませんし、この神父の台詞に是非を断言するつもりはありません。
ただ、最も賞賛するのは
「わかるはずもない」
って所です。
医者は「死因」を特定出来るでしょうが、「何故、この時に彼が?」
を説明出来なくて当然です。
また、神父は悩める者に
「主は愛する者ほど厳しい試練を与える」
と言うでしょう。
そしてこの時に
「どちらの愛する者」
かを言及しなければ…。
貴方は真に愛されるべき命を手にしたと思います。
ご冥福を祈ります。
黙祷。