「確実性と情熱とはともに相いれぬ立場なのだ。」
byキルケゴール
はい、上記の言葉はつまり、不確かなことに一生懸命になれるかが情熱ってことです。
貴方が最も情熱を注ぐものは何ですか?
恋愛ですか?
「絶対に上手くいく」
とか、
「結果がわかってる」
恋愛に一生懸命になりませんよね?
仕事や勉強やスポーツだって、万人から納得される為にやってるんじゃなく、積み上げてきた者に暫定的な答えを出し、その選択と結果に自信と責任を持つことなんですよね。
結果と評価は他者が決めることであるが、その選択の責任は自分にあるんですよね。
では、次は「哲学的断片への結びとしての非学問的あとがき」より原文まま
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「聖書に関しては一切の問題が落着したと仮定しよう。
でその結果は?
その結果、信仰のなかった人間が一歩でも信仰に近づいただろうか。
いな、一歩たりとも近づきはしない。
信仰はただの学問的思索だけからは生じないし、ましてそれから当然に生じるものでは決してない。
かえってその客観性の安心に酔って、無限の主体的情熱と関心をば失ってしまうのだ。
信仰の母胎、そこで信仰が生じるうるこの『いずこにも在りていずこにも無き』人格的世界を失ってしまうのだ。
では逆に、信仰のあった人間には、なにがしかの信仰の力と強さがまし加えられただろうか。
いな、いささかなりとも加わりはしない。
むしろ彼はこの広汎な知識によって、信仰の門口に待ちぶせしこれをこがれ求めているこの確実性によって、実に容易ならぬ状況におかれてしまったのだ。
ここで誘惑に陥って知識と信仰をすり換える結果に至らないためには、多大な苦闘を要し、大いなる恐れとおののきを経験せねばならないであろう。
それまでは信仰に、※不確かさが有用な守役※として仕えてくれてきたのに、いまやかち得られた知識の確実性は、信仰にとっての最も危険な敵となるだろう。
つまり情熱が取り去られてしまうならば、もはや信仰は存在しない。」
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はい、難しい文章を最後までありがとうございました(笑)。
※のみ補足させて頂きますと、
「不確かさが有用な守役」
とは、「わからないことがあるからこそ信仰は尊い」とされてきたことです。
但し、ここで錯誤に陥らないためには「わからない」は教える側の押し付けではなく、学ぶ側の主体に導いた「わからない」です。矛盾を指摘されての曖昧な答弁と貴方の答えとは別物です。