哲学的断片 10 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「懐疑家は、たとえば、自己の存在を否定はしない、しかし、結論というものをくだそうとしない、それは、彼が錯誤を好まないからである。
彼は相反する二つのものをたえず同じ意味のものとして論証するために弁証法を用いはするが、その場合、彼はその弁証法は、懐疑というものにしっかりした哲学的位置づけを与えるために用いるのではなく、単に砦として用いるのであり、つまりそれは人間的な便宜手段にすぎないものである。
だから、懐疑家は結論をもたない、否定的な結論さえももたないのである(なぜなら、たとえ、否定的な結論であっても、それをもつことは、認識というものをすでに認めたことになるなら。)そして彼は、ただ意志の力によって認識を停止せしめ、いかなる結論からも身を遠ざけて保つことに心を決めているのである。(これすなわち判断中止を原理とする哲学である)」

(哲学的断片。原文まま)

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はい、相変わらず哲学って難しい言い回しをしますよね(笑)。

でも、実存主義哲学者のキルケゴールは、スピノザやカント、ヘーゲルに比べたら全然簡単なんですよ!

はい、解説しますと、「懐疑家」を「評論家」に置き換えるとわかりやすいかと思います。

スポーツ解説者でもいいですし、ニュース番組の解説委員でもいいです。

彼らは決して「自分」を評論しません。
試合や事件に対して決して「自分」を投じることなく、客観的事実を相対的に述べるだけです。

しかし、人間は一切の関係を断ち切って「何か」を伝達することは不可能なのです。
生まれや育ちで何らかの「私だけの意見」になるのです。

「疑おうと思えばいくらでも疑える」
はデカルトの言葉ですが、それでも他者と共感や相互理解は「前提条件」という申し合わせが絶対なのです。

それでも他者のフィールドを土足で踏み荒らしたいのならば、「『私は』そう信じる『けど』」の前提条件を相手側に提示して思弁の許しを乞うことが信仰においても、道徳においても、ましてや芸術においては当然ながらの作法であろう。

なぜならば、人間社会には内心の自由は永遠に保証されており、
「思っていても言わない」
を行使するのは義務ではなく権利なのだから。

信仰の海に浸って、その恩恵を受けながら、神(絶対者、包括者)を否定する輩は母親の手料理が不味いと批判する学生かそれ以上に年月を経た者と大差ないだろう。
不運を嫌悪するクセに幸運を神前で辞退しないのだから