とある国の王に不可能はなかった。
全ては彼の意のままだった。
政治家は反論せず、大臣は服従し、隣国の王達も彼を恐れ、行事の度に必ず使者を立てるほどであった。
王は優れた知恵者というわけでも、優れた芸術家でもなかった。
しかし、国を動かす力と、一人の女性を一人の男性として愛する力は備えていた。
王が愛した女性は貧しい少女だった。
王が彼女を選ぶ事に誰も反対しない。
王と彼女が結ばれる事に誰も反対しない。
全ては王の意のままに段取りは進んだ。
牧師が今まさに神に捧げる言葉を述べようとし、竪琴が二人に祝福の音色を奏でる時、勝利宣言する者が居た。
勝鬨の名は「愛」。
そして同時に憂いの奈落に落ちようとしている者が居る。
王自身だ。
二人の結婚が成立するのは「愛」だ。
身分違いの恋を結びつけたのは「愛」だ。
「愛」には高らかに功績を誇る権利がある。
そして、その瞬間、王は憂いに落ちる。
「彼女は本当に幸せになれるのか?」
かと。
彼女、いや現在では愛する妃にさえその心情を話せず、神よりもご機嫌取りに躍起な牧師に言えるわけがない。
「彼女はやはり同じ身分の若者と結ばれるべきだったのでは?」
王は愛ゆえに苦しんだ。
そして耐えきれない王は遂に、最も身近な大臣に心情を吐露した。
大臣は述べた。
「陛下はあの少女に、彼女が一生かかっても感謝し切れないほどの恩恵を施されたのでありますぞ!」
感謝、恩恵、そして施し。
大臣の言葉は王の逆鱗に触れるに十分であった。
王はその大臣を即日処刑した。
罪状は「大臣自身の妻への不敬罪」
だった。
貧しき少女は王の愛を理解していただろうか?
優劣のないほど王を愛し、王の愛と自分の愛を理解していなければ、王の憂いは永遠に続く。
何故ならば、王は彼女を失うことよりも、彼女の「恩人」に成り下がることを遥かに恐れるのだから。(終わり)
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はい、あくまで哲学を伝える為の比喩表現として、キルケゴールが創作した話です。
隠喩というか観念的過ぎて、読み物としてのエンターテイメントは欠くと思います。
しかし、私自身どこか惹き付けられる物を感じました。
彼が詩人にも小説家にも、また本職であるべき牧師にもならなかったのがある意味納得する作品です(笑)。
感謝されて、『いい人どまり』と思われるくらいなら、罵り合って消え失せてほしい…って気持ちはあるかもですね。