散々三年以上も哲学記事を独自に書いてきましたが、なかなか哲学そのものが浸透するのは難しいものです。
それは2600年前に生きたソクラテスや、1700年前に生きた聖アウグストゥヌス公と何ら変わってないでしょう。
何せ、哲学を学ぶ者にとって、哲学を教える者にとっても、
「そもそも哲学って何?」
に半分の時間を費やすのですから。
そしてもう半分の時間は、「哲学史」。つまり、過去の哲学者達の人間ドキュメンタリーで終わってしまいます(笑)。
たぶん、あまり興味ない人は、
「ええ~哲学?
あぁ、ヒゲモジャのおじいちゃん達が、星空を見上げて、わかった様なわからない様な言葉並べて『人間とは○○だ』とか『愛とは××だ』とか定義するアレでしょう?
受験に有利だから倫理選択したけど、大学入ってたら全部右から左だよ~」
なんて方が殆どなんでは?
いや、当たってます(笑)。
でもね、これは外に向けて発信してこなかった哲学者達も悪いですよ(笑)。
21世紀になっても「形而上学」だけが哲学と思われてるんですから。
物事の「絶対」を求めて完全に定義したがる形而上学はアリストテレスの時代で終わっています。
そして中世暗黒時代と呼ばれるほど、5世紀から15世紀は本当に文学、思想は1000年の停滞を迎えます。
眠りを起こしたのはデカルト。
そこからイギリス経験主義と大陸理性主義に分かれていきます。
経験主義者の曲解された「私が見えない物は存在しない」との考えは、奔放過ぎる自由で排他的な市場原理主義の土台となります。
それでも大陸理性主義は、考える事を放棄しませんでした。
考えるほど聖書との矛盾が出ても、「体験すること、感じる事」で覆い隠すイギリス経験主義に対抗し続け、スピノザ、ライプニッツ、カントと受け継がれます。
これは聖書のドイツ語訳がかなり遅れて出版された事も原因かと思います。
よってドイツの哲学者は、後進国だった故に「何がなんでも聖書は正しい」ってことに少し冷静だったかもしれません。
事実、「国際連盟」を提案カントです。
エリザベス女王の権力でもなければ、ローマ教皇の慈悲からでもなく、カントの哲学からその理念は生まれたのですから。
そしてカントを昇華させたのが、私とキルケゴールが嫌いなヘーゲルです。
「哲学とは考えることを考える学問だ」
ヘーゲルのこの言葉に反論したいから、今も哲学をやってる私です。続