「問う」という言葉があります。
「問いかける」という言葉もあります。
また、
「疑問を投げ掛ける」
との表現もあります。
デンマークの哲学者、セーレン・キルケゴールはアリストテレスの言葉を引用しています。
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「背徳者も道徳家も各々道徳的状況を変ずる力を持っていないだうが、最初はそのいずれにもなりうる力を持っていたのである。
それは丁度、石を投げる者は、それを投げるまではどうにでもなしうる力を持っているが、ひと度投げてしまえばその石に対して何の力も持たなくなるのと同じである。」
(アリストテレス『ニコマコス倫理学』より)
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そしてキルケゴールは更に
「そうでなければ、投げること自体が幻となってしまう。
そうでなければ古代エレア派ゼノンのように懐疑派の飛ばない矢はいくら投げても投げる者の手に残っていることになる。」
と述べています。
また、
「不真理であり、かつ、それが自分自身の責任である。
この状況を『罪』と呼ぶことにしよう。」
「不真理ゆえに自分自身を捕縛した者に対して、再び真理を理解する条件を与え、それと共に真理を与える教師を何と呼べばよいか?『救い主』だろう。『解放者』でも相応しい。」
「教師というものは、学ぶ者が進歩したかどうかを判定することはできる、しかし、裁きの判決を降すというようなことだけは出来ないのだ。
何故ならば、教師は学ぶ者に本質的なものは与えることが出来ないことくらい十分ソクラテス的にわきまえているはずたがら。
神を忘れた故に不自由となった者が、来世で再び同じ教師から真理理解の条件を与えられた時、その教師は『審判者』と呼ぶに相応しいだろう。
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はい、ここまでが「哲学的断片」です。
私は以前の心理テストで「弓矢は努力の象徴」と言いましたが、キルケゴールとアリストテレスも同様なことを述べていて驚きました。
つまり、投げ終わってからはどうすることも出来ないのです。
ピッチャーは投げる前に握り方でカーブやフォークを決定していて、投げ終わったボールを曲げることはデキマセン。
努力は努力そのものにこそ意味があり、努力したことに意味を持たせたら価値がないです。
それは「作者と作品は別」「選手と成績は別」に言えるでしょう。
「解き放たれた。」
とは良い言葉です。
結局、自分が全てを管理出来るなんてのは自惚れで、「解き放たれた」が「鼻タレた」になります(笑)。