哲学的断片 4 「みんな」 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

以下、キルケゴール著、「哲学的断片」より
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「現代では牧師というものは会堂管理人に比べていくぶん序列が上だというに過ぎず、教会の権威はすへて二流人物の掌握するとことなり、しかもこれら様々の全く無数な人々に分与された権威は共通の愚劣さの中につまり共同の難破の中に媒介されてしまっているのだ。
(哲学的断片より)
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はい、キルケゴールは19世紀半ばに生きる牧師なんて人物は、集会所の管理人程度だと酷評しています(笑)。

「伝道師」なんて言葉を用いながらも、相手が理解する、しないは関係なく、通り一遍の説法をするばかり。
相手の問いかけに答えないばかりか、信者を導く為に自分から相手に「問いかける」こともしない。

愚劣な者は愚劣な者を従え、その数ばかりを増やしている。
ヘーゲルは「無によって媒介される」と言っているが、相互理解の段階にまで達してない者同士の関係性、即ちその「共同」が「無」ではないか?
ヘーゲルは歴史そのものが意思を持ち、より優れた者が選択されると唱えたが、それは現代人が過去を振り返った時にのみ有効であり、現在と未来には何の役にも立たない。
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そもそも教えるということは、少なくとも学ぶ者が理解の条件だけはすでに備えているということを、基本的な前提となしている。
もしこの条件がないなら、教師は何もすることができないわけだ。
従って、そのような場合には、教師はよい人間へと育てていくのではなく、教え始める前に、彼をそっくり創り変えてしまわなければならないことになる。
しかし、そんなことは人間には出来ないことだ。
だから、もしこういうことが本当に起こるとするなら、それは神自身によって起こされるのでなければならない。
(哲学的断片より)
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学びたがらない者に教えることは出来ないですよね。

勉強したい、知りたい、賢くなりたい、問題を解きたい。

こんな思いを持っている者にこそ、教師は有効であって、「やる気」とか「動機付け」を促すのが目的ではないですよね。

また、極端なケースかもしれませんが、生徒が完全に自信満々で己の回答の誤りを寸分も疑わなければ、教える側は何も出来ないですよね。
「答えを知りたい」とか「間違ってるかもしれない」との想いがあるからこそ、正答に耳を傾けるのです。

そうでなければ、

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」

のネタで

「そうですね」

と返答してしまいます