今回もたくさんの回答ありがとうございました。
いつも私の方が勉強になる回答をありがとうございます。
家康の「創業者」としての偉大さ。
家光が農地転売を禁止することで貧困層の味方となったこと。
犬公方綱吉だからこその大穴狙い。
「吉宗評判記」と呼ばれるくらい、暴れん坊将軍は史実をベースに当時から人気があったこと。
最後の慶喜は自ら降伏することで無駄な血を流さず、多くの戦死者を出すことを回避したこと。
皆様本当にどれも正解だと思います。
しかし、敢えて一位を選ぶならば、
徳川15代の将軍のうち、最も当時の庶民に愛された将軍は
6代「学者将軍」家宣(いえのぶ)です。
はい、難しかったかもしれませんね。
何よりも現在では有名でないです。
しかし、家宣公が慕われた理由は幾つかあります。
1 前任の5代綱吉が酷すぎた為、次代の印象が良く、何よりも最低の悪法「生類憐れみの令」を撤廃したからです!
家宣公がこの馬鹿げた法律を無くしたことは庶民から絶大な支持を得て「名君」と呼ばれました。
2 それと家宣公の在位はたった三年でした。48歳で就任し、51歳で亡くなられたのです。

画像は西田さんの「八代将軍吉宗」の時の家宣公です。役者さんは誰か忘れました(笑)。
そして上記の「学者将軍」のとおり、新井白石を登用し、儒学を奨励しました。
たった三年だからこそマイナス要素が無かったのですね。
家康から家光まではやはり武断政治の色が濃く、戦争をする主君は庶民に好かれませんでした。これは慶喜もそうですね。
4代目くらいから文治政治にシフトしていきますね。
吉宗は米の売価を安定させる為に商人とモメ、また年貢米を率から量に変えました。出来高に関係なく、必ず一定量を収めるようにしました。豊作の時は少し払うだけで残りは自分のモノになりましたが、凶作時にはどんな事をしてでも一定額を収める義務がありました。
なお、この間の7代家継は3歳で即位した幼君でした(笑)。
おかげで「将軍の生母」ということを傘に着た月光院が豪遊します。散財ならまだしも、大奥にお気に入りの歌舞伎役者を連れ込むという不祥事まで起こしましたね。
以上、人が人を評価するのは難しく、当時と今で違って当然ですね。
ありがとうございました。