戦争史と宗教史と経済史について 2 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「大航海時代」

もう私なんかこの言葉だけで中学の青春時代に戻れます(笑)。

と、言ってもKOEIさんのシュミレーションゲームですけどね(笑)。

信長の野望、三國志、大航海時代は物凄く熱中したゲームでしたね。


波が穏やかな地中海の主要な港(マルセイユ、ベネチア、アレクサンドリア、バレンシアなど)はベニスの商人が実権を握っていました。

「後進国」のポルトガルは外洋に出るしかありませんでした。

しかし、当時は西の海(大西洋)を進めば大きな滝になっていて、南(アフリカ方面)に向かえばたくさんの怪物が棲んでいると信じられていました。

しかし、バスコダ・ガマが南アフリカの南端ケープタウンを発見し、(本当はこの表現はおかしいですが敢えてそう書きます。)東回りのインド航路が発見されると、シルクロード経由の陸路よりも、遥かに早くアジアの商品がヨーロッパに届くようになりました。
それでも、ポルトガルのリスボン港から日本の長崎に到着するには二年かかりました。

ヨーロッパの人はアジアに何を求めたか?
代表的な物は「胡椒」でした。
胡椒は肉の臭いを消すものとして大変高価に扱われました。
どれくらい高価かというと、金と同じ重さで等価交換されたくらいです。

肉を食べる文化はアジアや日本より進んでいながら、胡椒はアジアと交易を持ってから、というのは何とも驚きです。

なお、大航海時代以前の中世ヨーロッパの食卓事情というと、味付けは「塩」のみだったのです!

そして貴族や王様の食卓には「塩振り女」という専門のメイドが居て、それぞれの皿に塩をかけて回ったのです。
この塩振り女による、ターゲットの皿に塩の代わりに毒をかける暗殺が流行したのもこの時代です。
調味料と料理技法の発達が暗殺を減らしたとは何とも皮肉ですね。

で、話を大航海時代に戻すと、地中海での近距離の安全な航海に比べ、外洋に出ることはとても危険でした。
無事に帰還すれば大儲けですが、帰ってこなければ大損。
船乗りも商人も高いリスクは付き物でした。
それでも海に生きる荒くれ者達は、自分と船を信じて出資してくれる人を募りました。これが西洋文化の「投資」と「プレゼン」の文化です。
物々交換や現金払いなどの即断即決をよしとする日本人商人にはなかなか馴染まない「投資」です。儲けることより失うことを恐れる日本人ですね(笑)。しかし、これが「金融」になると…ユダヤ人ですね(続)