「死は説得の達人である。」
(キルケゴール)
己を矯正するのにこれほど強い動機があるだろうか?
人間は望まない死の形を避ける為に生きているのでは?
と思ってしまうくらいである。
より良い「生」を実現させるには「死」は正しく説得の達人である。
恥ずかしい死、惨たらしい死、苦痛を伴う死を誰が望むであろうか?
名誉ある死、完遂した後の死、安らかな死を「望むな」と誰が言えようか?
だが生きとし生ける者よ、忘れてはいけない。
「貴方は物質社会の奴隷でない」ということを。
同じくキルケゴールは言った
「不幸への最も確実な道のりは『あらゆるモノが足りてない』と思うことだ。」
と。競争社会のマヤカシよ。市場原理主義のペテンよ。
救いを求める「利子奴隷」達に汝が何を出来るというのか?
私は言う。
「では今すぐ幸福にしてみろ!」
と。
みんな本当は知っている。
地位や名誉や財産が真の幸福ではないことを。
そんなものは忌の際に持っていけないことは誰もが知っている。
貴方の財産で生前の罪が軽減されるなら、利子奴隷達に私は蓄財を奨励するでしょうね。
生前の地位で死後の罰を免れるなら、仮に死後の世界が無かったとしても、己の業と向き合わなくて済むのなら、私は奨励するでしょう。
脱落を許さないチキンレースに止まれないマグロが参加することを。
幸福を望んでいる?
いや、違う。
不幸を避けてるだでしょう?
やりたいことが見つかった?
やりたくないことを選らばなかっただけじゃない?
キルケゴールは言った。
「人生の躓きは三つある。
愛による躓き
他人の評価による躓き
信仰による躓き」
と。
それが不完全な人間の限界であろう。
だから救いを求め、祝福を期待する。
だがキルケゴールはこうも続けている。
「我(主もしくは神)に躓かない者は幸いである。」
と。
救われる人間が素晴らしいわけではない。
祝福される人間が素晴らしいだけではない。
自力本願で自己自身を導ける者は居るということです。
大切なのは
「足るを知る。」
「道のりそのもの」
奪う事でしか存在を証明出来ぬ餓鬼よ!
先人達は相応しい言葉を残してる
「ザマア見ろ。」
と。
近代では侮蔑の言葉に成り下がったが本来は
「汝、自身を知れ」
と言うことです。
醜き餓鬼よ、迷える聖者よ。
死に説得されずとも
自己自身になれ