キルケゴールの著書「おそれとおののき」と「反復」が収録された「キルケゴール全集 5巻」を読み終えました。
「おそれとおののき」では、信仰に対する人間の態度を、「反復」では繰り返しの中にある人生の尊さを説いてました。
そしてキルケゴールが最も伝えたかったのは
「信仰とは情熱である。」
の一言に全てが集約されていました。
「情熱」良い言葉です。
人間は他者に己の行動を説明する時に、客観的事実や合理性を根拠に解説します。
そうすることにより他者と共通認識を得やすいからです。
しかし、自分が「これには情熱はあるけど、これには無い」とか、「何故、その事に一生懸命なのか?」を、説明出来ませんよね?
「己の情熱を言葉で語れなくて当然」な事は誰もが知ってるはずです。
愛する人に「どうして好きなのか?」に百万の言葉を紡いだ経験は誰でもあるでしょう。
そしてその言葉がどれも正しく、どれも間違っている事は誰もが知っているでしょう。
「優しい」が貴女だけでなく「魅惑的」だけが貴女でなく、定義すれば全て間違いで、大切なのは己の気持ちと相手の気持ちを擦り合わせようとする心がけと、その行為そのものだということを。
「情熱」は説明出来ません。
ただ情熱を持っていない自分を思索することでの反証で定義することは出来ません。
「主体的に生きることの源は情熱である」
とキルケゴールは主張しています。
責任や義務や命令でなく、「私」が「私」として生きることは情熱が欠かせません。
客観的合理性では説明がつかないのに、「何か」に自分が一生懸命になるということ。
頑張りたい、夢中になりたい、素晴らし価値があると思い、自分を突き動かす「理由なき理由」。これが「信仰」の根源であり、「情熱」と思います。
キルケゴールは常々「信じるから救われるのではない、救われるから信じるのだ。」
と主張しています。
私と同じ様にキルケゴールを敬愛した戦時下の兵庫県姫路市の哲学者、椎名鱗三は
「言葉の命は愛である」
と墓標に残しています。
そして私が彼らから学び、導いた言葉は
「信仰は日常である。」
です。
私達は「神の加護」という愛の海を泳ぎ続けています。信仰は「愛の息継ぎであり、呼吸です。」
ありがとうございました。