例外と一般 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

キルケゴールの著書「反復」を私の言葉で書きます。

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人々は繰り返される当たり前で一般的なものに飽きてしまいます。
それら変化無きものが色あせて退屈に見えるからです。

そこに例外が生まれるのです。

例外を解明することが出来なければ、一般的なものを解明することも出来ません。

例えば、学生服を着て登校する毎日に退屈を感じれば、私服で登校出来る学校を羨ましいと思ったり、自分が通う学校の校則を改正したいと思ったりするでしょう。

「制服の当たり前」に対して、「私服改正への例外」の方が情熱を持って勢いがあるのは当然ですよね?

しかし、一般にこの難点を人々が気づいてないのは、普通になってしまってることを情熱を持って考えず、いい加減な皮相さで考えてるからにほかになりません。
例外(革新的な非日常な考え)は激しい情熱で一般的(日常にあるもの)なものを疑ったからです。

戦いとは普通になってしまっていることによって起きる騒音(勿論、音そのものではなく煩しさとかの意味)に対する怒りと焦燥であり、また、普通になってしまっていることへの熱烈な偏愛が起こす抗争なのです。

一般的な99人が正しい行いを自分の力で成し遂げても、「主」は、例外的なたった一人の罪人が悔い改めることを喜ぶように。

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はい、独自解釈で書かせて頂きました。

思うにカルト宗教だの、市民運動家なんかは、この日常と非日常の使い分けが巧みで、無批判な情愛豊かな人に手品を見せてるだけでは?と思います。

「主」が悔い改めた罪人を祝福することは、それ以上に罪(原罪ではない)を犯さない善良な市民を最初から祝福していることを忘れてはいけません。

「神の奇跡」を謳うカルト宗教は山ほどありますが、貴方が生まれた以上の奇跡があるでしょうか?

信仰は日常なものです。
当たり前過ぎてそれが信仰とわかってない方が沢山いますし、私が「不信心な貴方も、神の祝福の中で生きているのですよ。」と言っても、それは言った私にのみ成立する真実です。その人の同意無い限りは。

国を守り戦争に勝てば素晴らしいでしょう。
しかし、毎日が「戦勝記念日」ではありません。
「戦時下の英雄」が平和時に…とはよくある話ですよね。西郷さんと大久保さんが好例です。

革新的な真新しさに煽動される前に、既存のものが何故、存在し続けたか?を考えることだと思います。