キルケゴールによる19世紀てきお笑い書評。 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

※文中の笑劇は、一般的な悲劇や喜劇とは分けて書かれています。
喜劇が物語に沿って笑いがあるに対して、笑劇は限りなく笑いのみを追求してるようです。


「一般に演劇の観客というものは、ある種の偏狭なまじめさを持っている。
彼らは、劇場で高尚にされ、教養を与えられなければ承知しない。
あるいは、少なくとも、そうなると思い込まなければ承知しない。
あるいは、少なくとも、堪能したと思い込まなければ承知しない。
けれども、こういう演劇的申し合わせは、笑劇には通用しない。
なにしろ、同じ笑劇が、人によって極めて様々な印象を与えるし、最も上手く上演された時が最も効果が上がらなかったという変てこなことも起こりうるからである。
従って、面白かったかどうかということについて、近所の人や新聞の批評を頼りにするわけにはいかない。
この問題は各人か自分で決めなくてはならないのだ。
それに、今までのところ、批評家といえども、笑劇を見る教養ある観客の為に礼式を設定することに成功してはいないのである。
この点では、いわゆる礼儀作法も、全く通用しない。
普通の演劇では、舞台と観客席との間に相互の尊敬という柵が設けられているのだが、笑劇では、この頼りになる柵が取り払われてしまう。

劇には必ず見いだされなくてはならぬ見事な性格描写とやらを良心的な観客として嘆賞するなどということは、とても出来ない。
笑劇に出てくる人物は、どれも「一般」という抽象的な尺度で描かれているからである。
だからこそ、我々は、もの悲しい気分にもなれば、頭へくるほど笑いこけることもできるのだ。
笑劇のいかなる効果も、イロニー(皮肉)の産物ではない。
全ては素朴そのものなのだ。
従って、観客がめいめい自発性を持たねばならない。
それゆえに、面白さは観客自身が作りださねばならないのであって、面白かったかどうかという保証を、となり近所の連中や新聞に求めても無駄であろう。」

キルケゴール『反復』より原文まま。

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はい、1843年に書かれた原稿です。
現代でも通用する普遍的な部分を感じ取ってくださったら嬉しいです。

ビートたけしさんの時代は小劇場からテレビタレントになることを「箱の中」と揶揄してたそうですね。
また余談ですが、Wikipediaでお笑い芸人を検索すると、持ちネタを無味乾燥に淡々と説明されて、一瞬イラっときますが、後から笑えてきます。