「無限の諦めは、信仰に先立つ最後の段階である。したがって、この諦めを行わなかった者は全て信仰も持ってはいない。
何故ならば、無限の諦めにおいてはじめて、私は私自身の永遠の価値を自覚するのだからである。
そしてその時はじめて、信仰によって人の世を捉えることが問題となりうるからである。
キルケゴール「おそれとおののき」より。
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はい、ここで引用される「無限の諦め」とは、決して中途半端で投げ出したり、失敗の言い訳などではありません。
人の限界を知り、人間としての傲りを無くした、「達観した悟り」では?と私は思います。
もしくは、「足るを知る」に近いかもしれません。
仏教では財産や俗世から決別する「出家」も、キルケゴールが引用した「無限の諦め」に近いかと思います。
※「ソフィーの世界」でも言及されてますが、デンマーク人のキルケゴールの哲学は、仏陀と共通する点が多数見られます。
「それゆえに信仰は美的な感動ではなく、遥かに高いものである。
信仰が諦めを前提として持っているからである。
信仰は衝動ではない。
うら若い少女が、困難の壁にあっても、願いが成就されると確信していても、その確信は信仰の確信ではない。
この少女が日曜礼拝を欠かさない厳格な家庭に育てられてても関係ない。
素朴さと無邪気さの彼女は、超自然な偉大さを獲得するであろう。
しかし、不可能なことを知ったにも関わらず、なお揺るがない信仰に比べると浅はかなものである。」
キルケゴール「おそれとおののき」より
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はい、「うら若い少女」は魔女っ子アニメや、ハウス名作劇場の少女をイメージしてくだされば結構かと思います(笑)。
赤毛のアンなんかいいですね。
自身の一義的信念を微塵も疑わない、危なっかしい真っ直ぐさです。
恐れながら自作の伊達さやかや、宮崎妙子をイメージしてくだされば、彼女達が俗世の対人的優位や社会的成功を求める限り、落ち着いた寛容を持ち合わせた信仰からほど遠いのはわかると思います。
勿論、このような真っ直ぐさが、金メダルやノーベル賞の原動力になるのですから、良い悪いではありません。
ただ無限の成功の可能性には、強欲と傲慢だけでなく、嫉妬や憤怒さえも、時にはエネルギー源になっていることを忘れてほしくないだけですね。
勿論、「豊かさ」には科学や芸術やスポーツ、そして政治や軍事の偉業の上に成立してるのですが。