「現代は英雄を生まないという時代の欠陥を持ち合わせていると同時に、少数の戯画を生み出すという長所を持っている。」
キルケゴール「おそれとおののき」より
はい、文中の「現代」とはキルケゴールが生きた19世紀半ばです。
印刷技術が発達し、新聞が普及した時代に、キルケゴールはある新聞社に自分を嘲笑した漫画を散々掲載され、長年に渡り不毛な戦いを続けていました。
また、出版社が見込みある文学学生に寄稿を頼み込むような時代でもありました。
それより昔は、英雄達さえも壁に当たり、躓きを経験しました。自説と違う主張に対して
「それは結果が証明する」
と高らかに宣言しました。
しかし、現代(19世紀半ば以降)に
「それは結果が証明する」
と一部の職業の方(キルケゴールは大学教授を指してる)が高らかに宣言することは、国家と政府の信頼を得て、国民の税金を投入された者にとって相応しいとは思えない、とも述べています。
現代において自説と違う主張に立ち向かうことは、
「それはどこの誰が言ったことだから」
と、直ぐに特定されてしまう問題点をキルケゴールは主張しています。
思うにこれは出版界の横暴が、学会に影響しただけに留まらず、ネットによる一市民の自由な発言と、学説や科学的功績では無く、学者のプライベートを追いかけ廻す報道と非常に酷似しています。
19世紀半ばにキルケゴールは既に、英雄が英雄で居られなくなる警鐘を鳴らしていたかと思えば頭が下がります。
思うに「神秘性」は宗教的教義や、倫理的尊さに多大な価値を与えたと思います。
ソクラテスも仏陀もキリストも一切自ら本を書かず、あくまで自分の為の哲学であり教義であり信仰でした。
これがネット社会なら
「だってソクラテスみないな不細工な男が~」
「仏陀はどうせ裕福な家の~」
「キリストは尊大な態度で口が悪くて~」
と、功績を貶めるには枚挙に暇がないでしょう。
勿論、あくまで人間である彼らを「神格化しろ」とは言いません。
彼らは自分の実存と向き合った英雄であり、彼らのプライバシーを知って、イメージを落としてもそれは
「貴方が彼らに抱く実存」
であり、たかだか一人の論文や、15分そこらのワイドショーが「真実」を語るなんて、大道芸の延長でしかないだろう。
だからこそ大学教授などが「結果が証明する」などと言うべきではない。
誠の英雄は結果に関わらず英雄なのだから。