
想像は勤勉な愛娘である。

セーレン・キルケゴール「おそれとおののき」より抜粋。
はい、勿論いろんな解釈が出来ます。
記憶が伴侶(妻と例えたのはキルケゴールが男性だから)なのは、あくまで自分の記憶は「過去」であり、自分自身でない、と思います。
勿論、自己を形成する履歴に間違いありませんが、現在に生きる自分と、未来へ向かう自分に対して、記憶はより良く生きるパートナーであり、夫婦は一心同体であれ、厳密に全部ではない。ってことを比喩するには最適だと思いました。
過去の経歴だけで合否を決められて、「これからの自分の可能性」を見向きもされなかったら、誰だって腹が立ちますよね。
伴侶の存在だけで自分が判断されるのもおかしいですし、所謂セレブ妻が、夫の成功を夫以上にうそぶくのも納得出来ないものを感じます。
だからこそ、記憶=自分ではないことを誰もが認める所と思います。
この辺りは、「鋼の錬金術師」で「アルの生成」と、「エドの記憶の中のアル」のエピソードをご存知の方はわかると思います(笑)。
そして
「想像は勤勉な愛娘」
ですが、未来を思い描くことは人間の活力そのものだと思います。
しかし、想像=未来ではありません。
思うに、イマジネーションは自分に力を与えてくれますが、アーティストもアスリートも、誰もが思い通りの未来を実現出来ません。
スポーツ選手は勝利した自分、理想のプレーに成功した自分をイメージすることが大切だ、と言われますが、それはイメージすることそのものと、結果を出すことが一番であり、イメージ内容との整合性は二の次です。
それは親が我が子の将来を思うのは当然ですが、子供の未来と、自分が子供に思う未来と違って当然な部分と一致すると思います。
想像はあくまで現在の自分に活力を与えるものであり、一つの間違いの無い確実な未来を描くのが大切ではないからです。
「想像は勤勉な愛娘」
の比喩も的確だと思います。
キルケゴールはまた
「自己の行為の法則を他人の中に持ち、自己の行為の前提を自己自身外に持つ者は、心賤(いや)しい者でしかない。
と、述べています。
このブログの読者様が、他人の反射で生きることがありませんように。