誰もが疑いもせず、前に進むから、さもおごそかに新しい思想が生まれ続ける。
『疑うだって?そんなのデカルトが散々疑ってくれたじゃないか?』
と、言われるかもしれないが、誠実で孤独な思想家デカルトは信仰については疑わなかったことを、誰もが間違って解釈している」
セーレン・キルケゴール「おそれとおののき」より抜粋
はい、近代哲学の父と呼ばれるデカルト

は、「我思う、故に我あり」
の言葉で有名です。
これは、「あらゆる真理を疑い、最終的に疑っている自分だけは疑えず、確実に存在する」との考えから生まれました。
「自分の存在は全世界より先にある。」
との力強い肯定感は、あのヘレン・ケラーを生涯支えた言葉だったと言われます。
また、デカルトは
「Yes 、No ノーゲームを繰り返し、人間と対極にある完璧なる存在が『神』である。」
と、論理学上の、あくまで数学上の『神の証明』に成功したのでした。
しかし、教会権力が強かった15世紀後半、デカルトは案の定「無神論者」と呼ばれるのでした。
私も「おそれとおののき」を読むまでは、熱心な神学者でもあるキルケゴールさえもデカルトを批判する立場に立つと思ってました。
しかし、
「神によって私達に掲示されたものは、あらゆるものの中で最も確実なものと信じねばならない。
そして仮に理性の光がそれと違ったことを、どれほど明晰に暗示するかに見えようとも、私達は自身の判断より神の権威に信を寄せねばならない。」
デカルト著「哲学の原理」より
と、キルケゴール

は、著作の中でデカルトを引用しています。
また、
「理性を導く為に従わねばならぬ方法を教えるなどと思わないでほしい。
私の意図は、私自身が従ってきたことを示そうとするだけである。
結局、学ぼうとする努力は、私が私の無知を次第に発見するという結果しか私に持たらさなかったように思えるからである。」
デカルト著「方法叙説」
より。
ともキルケゴールは引用しています。
デカルトが生きた時代は、地動説を唱えたガリレイと同じです。
また、キリストも仏陀もあくまで自分の為の信仰(ユダヤ教とヒンドゥー教)であり、生前に教祖になろうとは思ってませんでした。