第二次世界大戦に気球兵として従軍した実存主義哲学者にして、ノーベル賞作家のサルトルは言いました。
「俺が戦争そのものだ。」
と。
はい、緊張した世界情勢の中、私如き閲覧者が少ないブログでもどんな過激派や平和主義者から「攻撃」されるかわかりません(笑)。
しかし、死者に線引きも格付けもしないどころか、神道とはそもそも
「死後の世界を持たない現世利益のみの世界でも希有な宗教」
ということを思い出してくださいませ。
その後でこのサルトルの言葉を、よ~く考えてみてくださいませ。
そりゃあ、安全圏でふんぞり返ってる軍閥貴族と、赤紙一枚で戦地に送られた学生や月給取りとは違うでしょう。
でも、だからといって銃を持った貴方はホントに無罪か?ってことです。
国を守る為に、治安を守る為に、大切な家族を守る為に。
「勝ってくるぞと勇ましく」
で戦地に赴き、
国と家族を守る為に、敵国の兵を撃っても良いのでしょうか?
いえ、私は決して蛮兵に無抵抗であれ、なんて言いません。
誰もが繰り返し言いますよね?
「それが戦争だと。」
よほどの軍規を逸脱した行為でない限り、一個人が戦場の戦闘行為を罪に問われません。
誰かを撃ってもです。
「それが戦争だからです。」
だからこそ、従軍した一人一人が
「戦争そのもの」
なのです。
戦争責任にアルファベットで格付けしてる事を賛同してる方が多数いるみたいですが、そんなことで有罪、無罪か、重さ、軽さを問うなら、全員が犯罪者でしょうね。
「俺が戦争そのものだ」
この言葉に綺麗事も、理想論も平和主義もありません。
勝利か敗北でいうなら、全員敗者です。
デモに参加してる方は、
「自分がデモそのものだ。民意そのものだ。差別撤廃や平和主義とは、私自身だ。」
と、思ってやってほしいものです(笑)。
これは決して英霊を貶めるものではありません。
守られた命と未来は確かにありますし、感謝の気持ちを忘れてはいけません。
だからこそ問いかけみます。
「じゃあ、悪くないのはどこの誰?」
と。
世の中には、やれイジメだ偽善だ、と観念を押し付けて、行動と言動に正当性のエクスキューズを求めたい輩が多数見受けられるけど…。
「じゃあ、どこの誰になら、お前の報復は許されて、どこの誰ならお前の弾劾は拒絶されるの?
敵兵って、どこの誰なら撃って構わない?」
私見を失礼しました。