超訳・ソクラテスの弁明 17-12 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

もう、よいであろう。
私が弁明したいのは、ほとんどこれくらいである。

諸君の中にはこれより軽き訴訟事件に際しても、涙を流して法官に嘆願哀求し、また同情を惹く為に子供や親族、友人を法廷に連れ出したのを見たことがあるだろう。
しかし、私は一人である。

私を不快に想い、自尊心を傷つけられたと憤りの有罪票を入れる者には私はこう言うだろう。

善き友よ、私にも三人の息子がいる。
一人は青年で二人はまだ子供である。
私は無罪を勝ち取るために、我が子を連れ出すことはしない。
それは私にも諸君にも、国家にとっても不名誉だからである。
知恵か勇気かもしくは他の徳において卓越しているとの評の者でも、法廷に立つと奇怪な真似をするのを幾度か見た。
死に対する恐ろしい苦悩がもたらすこのような行動は、国家に不名誉をもたらす者である。

いやしくも世に多少の名声を博している者ならば、そのようなことをすべきでないし、諸君も容赦すべきでない。

憐れみを乞う芝居で国家を物笑いの種とする者には、自若たる態度を持する者よりはるか以上に処罰することを表明すべきである。

裁判官がその席にあるのは、情実で恩恵を与えるのではなく、事件を審理するためである。
国法に従って裁判することを宣誓したならば、情に流された判決を出すような習慣をつけるべきではない。

私は神を信じない罪で告訴されているが、宣誓を破り、諸君から哀願によって無罪を勝ち取ったとしても、そのような行為は正しく神を信じない者の行為である。
もし、私がそのような事をすれば、私は私自身を告発するであろう。

私は私の告発者よりも神を信じるものであり、諸君が最も善いように私を裁くことに対し、諸君と神々に委ねる者であるからである。

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はい、これで「弁明編」は終わりで、次回からは「結審編」になります。

「死」に対して頑なソクラテスですが、現代人の価値基準で彼を評してはいけません。

思うに「死」を恐れないソクラテスの態度は、「市民の矜持」と思います。

民主制とはいえ、奴隷が土地を耕してる生活です。
市民は天文や数学や体育に享楽し、文明の発達に寄与します。

しかし、一度戦争となれば、自腹で戦費を負担し、家族と名誉と奴隷の為に戦いました。
思うに平穏な日常は奴隷達のおかげと百も承知だからこそ、誇りと徳の高い生活に反する行為が許せないのだと思います。

判決後のソクラテスをまたお読み下さい